Title: 備忘。

大人になるというのは欲を満たす方法をしるということなのかもな。欲を満たす方法を知れば知るほどずぶずぶとぬかるみにはまっていく。子どもはその方法を知らないから時々かんしゃく起こすけど、大人より苦しみも浅い。

欲を満たす方法は最小限で十分なのに、社会も世界もそれがお金に替わるのであれば次から次にそれがスタンダードであるかのように嘯いてくる。そこに子どももどんどん巻き込まれていく。

巻き込まれて巻き込まれて大人になっていく。

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宗教っていうのは、自分都合にへばりついた狭い視点を、自分から引きはがして俯瞰的にさせてくれるもので、信仰とはつまりはその視点を得ることのメリットを認めて、いつもその視点をもっていたいという姿勢のあらわれでもあるのだろうな。

自分の事しか見えてない時と俯瞰的に物事が見えている時と、どちらがしなやかで強いかは一目瞭然で、信仰を持つことの強さは、拳しか見えていなかったらパンチは避ける事ができないが相手の身体の動きを俯瞰的にみる事ができて初めて繰り出される拳に反応することができるようになるボクサーにも似てる

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いきなり目の前に花を一輪さしだされたらキョトンとしてしまう。そのキョトンとはこの花の意図はなにか、この花がどうしたというのだろうか、この花をどうしろというのかという思惑だらけのキョトンであって、そのキョトンがそのまま苦しみの根源なのだろうな。

ただきれいだね。その一言が大人になればなるほどでなくなる。やっぱり子どもは仏かね。

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宗派という道しるべがあるからこそ、芯に近づくことが出来るのだけど、往々にして宗派があることで本来の芯を見失ってしまうということがある。宗派も宗祖も仏教の何たるかを必死に伝えようとしている。大乗小乗の区別もしかり。

釈尊が何を説き宗祖がそこに何を聞いたのかそれを自らで紐解き、尋ねる姿勢はなによりも大切だと思う。

べつにいつ死んだってかまわないとかいうのは何か違うなと思ってしまうのだけど、でも今日もし命を落としたとしてもそれはしかたないと思えることにはとても共感できるのよ。

死ぬにはもってこいな今日をどれだけ生きられるか。

POSTED @ 2013.08.11 | Comment (0) | Trackback (0)

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