デッサンを始めた方が、はじめは3次元の物体を2次元にするってことがどうしても理解できなくて、2次元の動きだけで3次元のものを表現することに一種の混乱のような状態だったのだけど、
ずっと続けていくうちに、ふとその上下だけの動きの中に、物質をとらえる感触が分かってきて、奥行や、丸みや、光など、そういうものを上手に2次元に捕まえられるようになった瞬間があったという、
そうなるとデッサンはおもしろくなってきて、目に見えたものをついつい書いてしまうと話を、さらにデッサンの経験のある先生に話したそうだ、
すると先生は、それはまだまだ第一段階かもしれない、目に見えたものの形を上手にとらえられるようになると、見たまんまにかけてるようだけど、ある時それがなにか作り物の張りぼてを書いてるような感覚に陥るときがあって、
例えば自分のデッサンしたキャンバスの中の胸像を持ち上げたら、とても軽いんだろうなって、見た目は同じだけどなんていうか中身が違うんだよね、その違和感を払しょくするのにずいぶん時間がかかって、それをつかむには、またひたすら書くしかないねっていって笑ったそうだ。
そんな話をきいて、それはきっとどんなことをしてても通じる感覚なのだろうなと思った。
「話す」ということにも通じてくるし「つくる」「書く」「描く」「食べる」「けん玉をする」でも「焚火をする」でも「料理をする」でもなんでも、動詞で表現できることにはすべてに当てはまるのかもしれない。
同じように見えてもなぜか質感や重みが全然違う、つまりは「中身」が違う。その「なぜか」の答えは全部同じところからくるのだと思う。
それがなんなのかおぼろげながら見えてきた気がする今日この頃、とにかくやる気があろうとなかろうと"続ける"ということで得られる体感、感覚は、理屈や理論を超えていて、そういう感覚を一つでも多く増やしていきたいものだと思う。
本当に大事な、肝みたいな、極意みたいな、核心のようなものは、大抵目にはみえない、言葉や文字では表現しきれない小さな粒みたいなものの積み重ねの先しかわからない。
そしてなによりも続けるためには、それを好きになるしかない。なのだろうな。