国や制度や社会や、もっといえば家族でも友達でも、そもそも自分以外の誰かに幸せにしてもらおうなんて考えはどこかで捨てた方がいいのだと思う。自分にとっていいことも悪いことも淡々と起きるのが現実で、自分が干渉することで変えられる現実なんてものはたかがしれている。その中で幸せかどうかというのは、あくまで超個人的な問題であり、物理的な状態を越えた上に幸せを乗せるしかないのだと思う。
まもなく震災から1年が経つ。ここにくるまでの復興や世論の流れをみていて、個人レベルでの絆であったり、人と人のつながりであったり、本当に人間というものの強さをみたような気がする、そしていつも自分に何ができるのだろうかということを考えさせられている。
しかしその反面、結局のところこれから数年の間に、復興に乗じて新たな、そしてとても大きな利権が作られる、そしてきっと国内の原発も何事もなかったように再稼働をすると思う。
そこにあるのは、避けようのない人間の根底に関わる問題であり、人類が生まれてこの方一度も変わったことのない事実なのだと思う。
国家という組織の中で生きている以上、国家レベルの幸せと、個人レベルの幸せというのは決して同じベクトルを向くことはないのだろうと思う。
ブータンの国民が本当に幸せかどうかはわからないけど、少なからず国家としては裕福でもないし、人々の暮らしも日本とは比べものにならなければ、日本で治るべき病気で簡単に人が死んでいくのが現状だ。
しかし総幸福量というやつはとても高いらしい。
いいねブータンなんて簡単にいってる人をみると、まずは自分がその水準で生活をしてみてから言えと思う。それでも幸せだというのがどれだけ至難なことか。
結局の所、今の自分の幸せは誰かによって保たれていて、普段そこに甘んじて生きているのに、それを簡単に棚に上げて、棚に上げてる自分に気づかないうちは本当に幸せになんてなれない、死ぬ間際になっても、なにかに怒り、不安におびえ、生活に追われ死んでくのだろう。
幸せとはいったいなんのか。
幸せを作るのは誰なのだ。