Title: N

脳に血が流れている感覚。この感覚を意識的にでも忘れないように、習慣の中に残しておかなければいけない。
日常の中にこの時間を作り出せるということは、やはりそこには余裕であったり余力とよばれるものがないと難しいのかもしれない。
だからこそ力の分配を意識的に。

自分にとって大事なのは、真っ白な画面に向かって言葉を紡ぐこと。

なにもでてこず、なにも書けず、書き直しては消し、書いてはその言葉がどう見えるのだろうかというところにつかまって、やはり書き直しては消す。そのうちに言葉は自分の中にあるものとかけ離れて言って、何のために続けるのか目的を失う。

自分の中にあるものがこそげ落とされて、頭の中に血が巡って、書き終わった後のリセットされたようなすっきりした感覚、なんとかしぼりだして言葉を書き始めたら、少しずつ生み出した言葉があたらしい言葉をひっぱってきて、思考に指の動きがついてこなくなる感覚。

その積み重ねが自分の中にもたらすものはなんなのか、その効果をはっきりと言葉にするのは難しいのだけど、離れれば離れるほどに、その行為があらゆる場面で自分の中の潤滑油のような役割を果たしていることに気づかされる。何のためにといわれれば、自分のためとしか言いようがない。

足元を確認。

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自分がここにいることを誰も知らない時間が昔よりも少なくなったこと。

自分がここにいることをどこのだれもが予想もできないような場所というのは、例えばそれはそこで大きな災害などにあったとして、自分を知る人がどんなに考えてもその場所を想像もできない場所にいるということで、それは旅でもあったりするし、旅でなくても、思い付きで入った雑居ビルの踊り場であったりもするし、それはつまりは思い付きでだれにも言わずに行動した日常から見たら突拍子もないイレギュラーな時間ということなのかもしれない。

その時間のなにが大切なのかそれもはっきりと言葉にするのは難しいのだけど、その時間の中に身をおくときに、自分の中にあるなにかがこそげ落とされて、少しづつリセットされていくような気持ちになる。それはつまりその時間の中のある種の責任を放棄するような後ろめたさの中にある背徳的な心地よさを求めているのかもしれない。

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感覚に何かを任せようと思うとき、それは自分の感覚に対する自信が必要であるし、その感覚を信じられるようになるためには、多くの失敗をしたうえでの傾向と対策と、なによりもその一つ一つを自分の中に蓄積しようという意思が必要。







POSTED @ 2017.08.07 | Comment (0) | Trackback (0)

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