Title: 癒。

僧侶が癒しを与えてくれる存在だと思っている人がいるようなのだけどそれは違う。

僧侶は癒しなんて言葉を使わないし、むしろその言葉を懐疑的に受け止めていてもいいのじゃないかと思う。

癒しって、そもそも何によって消耗した何を癒しているのだ。

癒し癒しだといっていうる人ほど、自分が消耗する原因を外的な要因の性にして、それをまた外的な要因で回復させようとする。でもそんなことを繰り返していても目の前の現実をしっかりと受け止めて乗り越えない限り、自分の中に平穏なんて訪れるわけないのだ。

こういうと弊害があるかもしれないけど、今回の震災で被災された人たちに、いつまでも癒しをとか、癒されてほしいとかいう人をみると、ちょっと違うのになと思う。

いま被災した人たちに必要なのは、悲しみや苦しみから目を背けたり、考えなくてすむようになることではなくて、現実をしっかり受け止めて、そこから復興に向かって手を取り合って、一緒にその苦しみを乗り越えてくれる存在なのだと思う。

でもその苦しみや悲しみがあまりにも大きすぎて、一時的に応急処置として、絆創膏の役目を癒しで補うのはいいと思うんだ。でもいつまでも絆創膏をはっていても傷は治らないし、そこは化膿して、いつまでも傷がじゅくじゅくしたままになるだけなのだと思う。

大事な人を失った悲しみや苦しみも同じだ。

癒されて乗り越えられるなら、宗教なんていらないのだ。癒されても乗り越えられないものがあるから宗教があるのだ。

そこを勘違いして、宗教は癒しだなんて人がいるけどそれは違う。特に仏教は、癒しを与えてくれるようなものではないし、そういう勘違いした人からしたら厳しい宗教だと思う。

いつも自分の考えが正しくて、無意識にも自分本位なことを思う自分に、冷や水を浴びせかけてくれて、頭をトンカチで殴ってくれるようなものが仏教なのだ、それが見せかけではない本当の優しさなのだと思う。そしてそれは慈悲という言葉に「悲」という文字がくっついている理由じゃなかろうかと思う。

わかった顔して仏教ってさ。とかいうのも同じなのだ。

そういう自分に対してもつねに、おまえ調子にのるなよというのが仏法なのだ。

そんなことを思っていたら、求道ってあるラインまできたら、急速に指示を失い孤独になっていくのではないかと思う。

だって、ほんとのこといえば、あんた自分を棚に上げてるけど、原因は全部あんたの中にあるよ。ペテン師はよく人の間違いを大げさに騒ぎ立てて、自分の間違いから目を背けさせるのだけど、あんたのやってるのはまさにそれじゃないか。

それに、がんばれだの癒しだの言ってるけど、そういうあんたの自分本位な思い込みや気持ちで誰かを傷つけたり踏みにじっている可能性は0%なのかい?

ってことなのだけどそんなこと言ったら嫌われそうだし、そういう自分だってまさに渦中の人ってなもんで。

それこそまさに犀の角のようにただ独り歩めということなのだろうか。

なんて。


POSTED @ 2011.11.17 | Comment (0) | Trackback (0)

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