Title: 部屋とパソコンと私。

昔、はじめてパソコンを手にして、夜11時になるのを待ってテレホーダイの時間にダイアルアップで回線をつないでいた頃、パソコンやネットから自分に流れ込んでくる情報や知識は、どれも先進的で斬新で新しい世界が開けたように感じていた。

はじめてCHATというものを知ったり、右往左往しながらHTMLを書いたり、夜な夜な東風荘で麻雀をしたり、それこそはじめてネットの中でできた友人の存在というのがどこか特別な感じがしてウキウキしたりして。思えばmixiもgreeもサービスすらスタートしてなくて、2chも今みたいに有名なものではなかったと思う。

サイトというものすら、本当にできはじめたばかりで、ネットサーフィンなんて言葉にうかれて、あちこちサイトを飛び回ったところで、今とは雲泥の差でたいしたサイトなんてなかったのだ。

回線速度も昔とは比べものにならなくて、ちょっとゲスイ画像が上の方からじわじわとでてきて、1枚の画像が全部表示されるまでに数分かかることなんてざらだったのだ。その時間のもどかしいこともどかしいこと。動画なんか落とすのに一晩かかったもんだ。

今思えば、初めてファミコンでスーパーマリオブラザーズをやった時の感動みたいなものなんだろうと思う。PS3の世代には理解できないだろうが、当時ファミコンが出たときの感動なんて、いま最先端のゲームが出たときの比じゃなかったんだ。

今となったら、たいしたことないものでも、当時の自分からしたら、いままで知らなかったことがどんどん流れ込んでくるようで、楽しくてしょうがなかったし、楽しいからこそどんどんいろんなことを吸収していたのだろうと思う。

あの頃パソコンやネットで広がった世界は、確実に今自分の生活の中に根付いている。遠くにいる友人と簡単につながれたり、新しい出会いがあったり、それこそ、その出会いは今の自分の人生にがっつりかかわる出会いであったりもしているのだ。

こうやって文章をサイトに書き始めたのだって、あの頃からずっと続けていることの1つで。

はじめてHTMLを書いて、くそみたいなサイトをつくって、でもそれははじめて自分がネットの世界に住所を持てたみたいな気持ちになれて、自分の城をもったような気持ちがして、嬉しくて嬉しくて、むだにアクセスカウンターをまわしたりしながら、なんとなく文章を書き始めたら、思いの外いろんな人からおもしろいとか言われて、その気になって。んでその気になって続けているうちに、いつのまにかライフワークみたいになって、書き続けたことでおぼろげにも自分の中にあったものが、はっきりと輪郭をもつようになって、自分をつくる大事な要素になってきたのだ。

なんでこんなことを書き始めたかと言えば。

当時自分にとって、パソコンやネットというのは、未知への扉であり、知識や情報や、興味や好奇心を満たしてくれる入り口だったのだ。いうなれば、すんごいおもちゃ箱のようなものだったのだ。

でも最近はそうじゃない。

もちろんパソコンを使うのが、遊びだけじゃなくなったというのは一番大きくて、自分の仕事の半分はパソコンがなきゃできないようなものばかりだからだというのもあるのだけど、今はパソコンを開けたくないなと思う日もあるし、パソコンを開けば、返さなければいけないメールがだだだっときて、それを書くだけで力尽きてパソコンを閉じることもあるし、みたくない情報にさらされたり、無駄なしがらみにめんどくさくなったり。

なんか習慣みたいにパソコン開いたり、ネットを徘徊したりするけど、あの頃みたいなウキウキはなくて、世の中のことや社会のことをざざっと斜め読みして、いろんなSNSで友人の動向を知ったりして、それはそれなりに面白いのだけど、なんか自分の頭の中がぐぐっと広げられる感じがしないのだ。

つまりは、パソコンやネットに対する愛が薄れていることにはっと気づかされたのだ。

なんであの頃みたいに未知の扉を開いてる気もしないのか、なんで愛が薄れたのか考えたのだけど。

あの頃の扉は一方通行で、こちらからしか開けなかったし、自分専用のどこでもドアみたいなもので、扉をあけるときに今日はどこへいこうか、どこかに誰かがいるだろうかなんて、期待をしながら扉をあけていたもんだけど、今はあちこちに入り口が増えすぎたのと、ドアが便利になりすぎて、開けてもいないドアから、勝手にいろんなものが入ってくるし、開けた瞬間にあちらこちらに矢印の書かれた看板が乱立されているようで、さあ今日はどこへいこうか!なんて思わなくても扉の前にはいつも誰かが立っていて、なんとなく思考を麻痺させられて、思考停止状態のまま、とにかく矢印の進むままに徘徊したりするようなもんで、急にわくわく感が失われたのだろうな。

なんか、自分の足で歩いている感が薄れて、動かされている感と、予定調和感がぬぐい去れないのだ。

なんかゴールとルールのきまったRPGをひたすらやり続けるみたいに、どんなに歩いても誰かのかいた地図に上からでられないみたいな感覚。

だからもういいやって思っちゃう日が増えたのかもしれない。

まあはやいはなしが、社会人になって学生の時よりも自由に使えるお金が増えて、しかもその状態で同棲し始めたら、お互いの距離感に微妙の違和感が生まれたというようなものだ。

でも、自分の側にも大きな原因があるとは思ってて、たぶん自分の性格的に開拓したり、余白の多いものに興味を惹かれるからかもしれないし、ほんとは余白は自分で作り出さなければいけないようなものなんだろうけど、そこはきっと根っからのめんどくさがりなのが災いしたのと、今の環境の中で自分の感覚も麻痺しちゃって、新しいことに挑戦しようとしなくなったり、あたらしい知識を自分の中に落とそうとしなくなったというのもあるのだ。

なんにせよ。

人でも物でも、パソコンでもネットでも、街でもなんでも、つきあいかたにはフェーズというものがあるのだろうな。

そのフェーズを自分の中でどうやりすごして、どう変化させていくのかというが大事で、どのフェーズでも、そのままありのままを、のほほんと楽しめるくらいの余裕がある人生でありたいし、またわくわくできるようなつきあいかたを自分で編み出して愛を再燃させられるような術を身につけたいものだ。

これといってなにかを主張したいわけでもなんでもないただのこんな文章なのだけど、こういうことを書いて、なんかすっきりすることができるのもパソコンとネットがあってからこそなのだしね。

なんてまだ完全に消えてない愛の灯で自分を暖められるうちは大丈夫か。

まあ何が言いたいのかよくわからないし、落としどころもないのけど満足したので大塚愛を聞きながら寝る。

おやすみなさい。










POSTED @ 2011.11.20 | Comment (3) | Trackback (0)

RYO さんの呟きやblog楽しみにしています

遠く離れた顔もしらない方だけど
文字から伝わってくる その人の持つ温度を 感じるからです

便利な時代
便利な時代さ故に
スピードと共に 剥がれ落ちている大切な部分

そういう部分
私は
気にしながら
ネットと付き合っていきたいなって思っています

遠くに離れて暮らす姉は
時々手紙をくれます

サプライズ

かなり心に響きますよ(笑)


的外れなコメントしてしてると思います…ごめんなさい

倦怠期は

どんな世界にもつきものです…笑

Posted by: ゆうり @ 2011年11月21日 08:19

コメントありがとうございます。スピードと共に剥がれ落ちていくものを意識するってほんとに大事な事ですよね。

きっと意識するだけで剥がれなくなるものもあるんでしょうね。

倦怠期・・・人間はどんなものでもちゃんと飽きるようにできているそうです。それが既存設定。

だからこそその時期をどうやりすごすかって大事で、そういう時期なんだろうなと思います。

Posted by: ryo @ 2011年11月21日 08:25

飽きるようになっている…

目からうろこでした
そして
なんだか安心しました 笑

Posted by: ゆうり @ 2011年11月21日 08:45

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