Title: ダライラマ14世。

ダライラマ猊下の話を聞いて感じたことを忘れないために。

いつお話を聞いても、現代の僧侶や僧侶だけでなく、答えをつけかねるような問題や事例に対して、仏教に基づいた明確な答えを示される姿をみていて、本当に仏教を実践して深めていくと答えはとてもシンプルなところに還っていくのだなと感じた。

例えば、第三者として、質問者と猊下という構図をみていると、質問に対する答えはとてもシンプルで、いわれてみれば「そう、そうなんだよ答えは」と思えるようなものばかりで、いかにあたりまえでシンプルなものが見えなくなることこそが迷いに繋がるのかということを再認識させられた気がする。

例えば、ゲイの人の結婚式をお寺でやりたいと頼まれて悩んでいるという僧侶に対する答えに、それは法律の問題もあるのでそこに即して考えなければならないとしつつも、なによりも大切なのはそこに信仰があるかないか。そこに立ち戻り考えるべきという答えは、自分にとってはとてもシンプルでありながらも、とてもストンとはいる解答だった。

他にも恋愛のアドバイスをくださいという質問に、自分は僧侶なので、恋愛はしたことはないが、愛と慈悲、この「宗教」というものの根本にあるものを大切にすること、自分の欲望や執着を押しつけるのではなく、利他的な心を持つことだろうと思います。の解答もあたりまえのようだけど、仏教的な解答としては明白であり、真実であると思う。

ふと一休さんや蓮如さんの逸話を目の前で見ているような気持ちになった。自分の思惑や周りからの目や、様々な算段が無意識にも自分の目を曇らせてるのだということを端的に伝えられているように見えた。

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質問の中で印象に残ったもの。

幼稚園をされている僧侶からの質問で、園に不審者が侵入した場合、自分は暴力をもって侵入者を排除すると思いますが、仏教徒としてそこに葛藤が生じるという質問。

この質問に猊下は即座に、暴力か非暴力の境目というのは、それがどういう心で行われたのかが重要になる、例えば一つの行動が利己的な目的で行われたものであるならば、それが一見して非暴力であっても私は暴力であると思うし、それが利他の心で行われる場合には、一見して暴力的であってもそれは非暴力であると述べられた。

政治的な立場を退いているとはいえ、受け取り方によってはとてもドキドキするような答えだなと感じたのだけど、でもそれを教典に基づいて明確に示されたことにはとても感銘をうけたし、なによりも仏教というものがなんなのか、「教え」というのはあくまで1人の人間に向けられたものであるのだということを感じた。

それと同時に真宗の僧侶として感じるのは、自分が利他であると考える行動についての信用性についてで、そこにもうすこし言及したくなってしまうのだけど、これを機に「凡夫」ということについて、もっと深めて考えていかなければならないと思った。

上座部→大乗の流れの中ではこの「凡夫」をどう受け止めるか、さらにいえば、真宗においても「凡夫」とは何かということを突き詰めていかなければ、本願がなんたるか感覚的な部分でわかりっこないのだと思った。なにが本願ぼこりで、何がぼこりではないのか。その辺りのことを猊下に聞きたいなと思って頭をかけめぐったのだけど。でもきっと猊下なら、他人を思いやる気持ちや、いたわる気持ち、慈悲の心を育てること、まずはここに励むこと、行動は自然とそこに即してくるので、実践としてその心を育む努力をすべしというのだろうと、勝手に腑に落ちたりしたのです。

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焼身抗議について意見を求められたときの、とても悲しいことです、そして利他のために人を傷つけることなく自分の身体を傷つけてそしてなにかを訴えようとする行為はとても尊い行為であると思いますとはっきり述べられたときには、自分はチベットの苦しみも現状も髪の毛の先ほどもわかってないけど、その言葉に胸にこみ上げてくるものがあった。

昔チベットに行った時に、たくさんのラマ僧に助けてもらった。本当にたくさん。そしてデプン寺院でのショトン祭で、何百人ものラマ僧たちの地鳴りのような声明に心が打ち震えた時の気持ちがよみがえってきて、もしあの時に関わった僧侶たちが今とても苦しい思いをしているのであれば自分にもなにかできないだろうかとも思った。そしてなによりもまたあのチベット空気を味わいたいし、ダラムサラにも足を運びたいという気持ちがふつふつと湧いてきた。

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物事のきっかけというのはどこに落ちているかわからない。

なにかが自分の背中を押すときに、必ずしも目の前の現実が劇的にパンチをくれてくるわけではなくて、最後の一藁みたいに、積み重なったものが些細なことでがらがらと音を立てて現状を変えると言うことはよくあるのだと思う。

なにか心のチャンネルが変わった時には、後になってあれがチャンネルの変わった時だったのかもとわかる程度のことだと思う。つまりはそれは捜して見つかるものではないし、そのきっかけが必ずしも万人に同じ変化をもたらすかというとそうじゃない。

そう思うと、何事も積もり積もっていくもので、未来は間違いなくこの瞬間に繋がっているのだと思える。

誤解を恐れずにいうのであれば、昨日の猊下の話に目新しい話はなかったし、新しい発見があったというよりは、再確認であったり、復習のような感じだったのだけど、それでもこの経験は自分に蓄積されたし、それがきっとどこかにつながるのだと強く感じた。

昨日の今日でうまく整理できないことだらけなのだけど、改めて仏教のおもしろさや、悩みや迷いがどこから生じてくるのかということ、それをつきつめていくことへの興味がむくむくと湧いてきたことだけは間違いない。

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まだうまくまとめきれないけど、昨日印象にのこった言葉と考えたいこと。

色即是空・空即是色:色は空ではあるけれど、それ自体は現存するものであり、関係性によりなりたつ物事の本質でもある。空であるがゆえに何物にもなりうる。

感情が起こる前の静かな沈黙。心が起こる前の心、止観
呼吸法、呼吸と一つになる。

五蘊に無関係な自我はない。

量子化学的に物質を最小まで解析していったときに、その一粒だけで成り立っているものというのはない、その関係性、依存性というのは、仏教的な因果の法にもとても似ている。依存をして存在しているということは、それはすなわち無常であるということを表している。苦の要因を探るときに、その依存関係を正しく理解をするとこが大切である。

チベット医学の話、人間の体が成り立つ時、五大元素を元にルン、ティーパ、ペーケンの三つの体質がある。

苦集滅道と浄土観






POSTED @ 2013.11.20 | Comment (0) | Trackback (0)

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