Title: 108つ。

「凡夫」を考えるときに、動物として生命を維持し、種の保存のために、食欲、性欲、睡眠欲があるということ、つまりは生存本能を持ちうるということと、生命又は精神維持機能としての脳の働きを正しく理解するということは避けてとおれない。

思うに、仏教における修行っていうのは、動物的な本能と、生命精神維持機能としての脳の働きを、極限まで余計な部分をそぎおとしていく過程なのではないだろうか。その余計な部分が大きければ大きいほど苦しみに変わりやすいということなのではないかと思う。

それでも人が人である以上、削ぎ落としきれない部分というのが、数%くらいあってその数%とどうつきあっていくのかということの中に仏教の本質があるように思う。真宗においていえば、そのどうにも削り落とせない数パーセントを、無条件に救いとるのがつまりは阿弥陀であり、お念仏になるのだろう。

しかしながらそこで一つ問題になるのは、その数パーセントが3%なのか、10%なのか、50%なのかに差異があるということで、その差がつまりは凡夫への認識の差異を生むだろう。

3%まで無駄を省いた人が、10%省いた人へまだ無駄があると指摘して、10%まで無駄を省いた人が、30%にそれは本願ぼこりだと指摘してしまうのが人間であるのだけど、その数パーセントの差をどう許容していくか、その指針はつまりは自信教人信にあたるのではないだろうか。

それはシートベルトをしないで、スピード違反を注意するようなもので、阿弥陀の前にはどちらも救われるしかない存在だし、差異はないし、その差異を生み出す心こそを聖人は悪人正機と言う言葉で戒められたのかもしれない。

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釈尊にとって苦行は覚りにいたる道ではなかったといいきれるかというとそうではなくて、苦行の前と後で、思考に変化がないわけがない、むしろ苦行をしてここに覚りはないと感じる事こそも一つのプロセスで、それがあってこその寂静だったのではないかと思う。

そんなことを考えていたら、ふと、苦行を終えてスジャータに乳粥を与えられた釈尊と、比叡山を下りられて法然上人にお念仏を与えられた親鸞聖人に通づるところはあるまいか・・・いやこじつけか。




POSTED @ 2013.11.22 | Comment (0) | Trackback (0)

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