Title: じがむが。

自分の意識、自我をどこに置くかということについて、自分の中ですっきりとしたことがある。

ここ数年、色々な人の活動をみていて、この年になると、それぞれの生活や、人生を取り巻く環境というのはおもしろいくらい違いがでてきていて、FBを見ていてもそうなんだけど、会社を起こす人、会社に勤める人、社会活動をする人、家族と日々を穏やかに暮らす人、それぞれが今の生活を大切にしていて、それぞれの想いをもって生きている。

そんな中で自分は、世界で活躍する人を見て、自分もがんばらねばと思ったり、家族を大事にする人をみて、自分もそうあらねばとおもったり、会社でがんばってる人を見て頭がさがるおもいがするわけです。

そして同時に誰かと自分を比べてそのギャップにモヤモヤしたり、自分の小ささを思い知らされたりするわけです。

そういうぐずぐずとした思いをするたびに、FBやめようかなとか逃げ出したくなったり、人は人だからとか思いながらも、自分はこんなにがんばってるんだとか、こんなことやってるんだぜと自己顕示したくなっている自分に嫌気がさしたりしながら悶々とした日々を過ごしたりすることもあるのだけど。

でもなんかふと思ったのだけど。

それは、自我をどこにおくかという問題なのだ。

自我を会社というものにおけば、会社でがんばる自分が自分を支るアイデンティティとして確立されて、自然と行動も言動もそういう風になっていく。同時になにかが二の次になる。

それが、社会活動をすることでも、家族でも、遊ぶことでも、どこにおいたとしても、どこかに自我を置くことで、その環境における自分を自分で支え、大義名分をみつけて、その場所にいる自分を肯定して、保身するようになる。

その固執が、なにかを二の次にする。

そして自分の二の次にしたものが、だれかの自我の置き場所であったりする。

家族と一緒にいて幸せにいることに自我をおいている人間が、社会活動に自我をおいている人を指して、まず自分の家族でしょといったり、会社に自我をおいている人が、趣味に自我をおいている人に、遊ぶ前にまずやることあるでしょとかいっても、それは堂々巡りなんだ。

結局これのぶつかりあいなんだと思う。生きるということは。

そうおもってさらに考えてみたのだけど。

仏教というのは、自我をどこにおくのだろうか。

一見その答えは「人間」なのではないかと思ったのだけど、それだと人間において都合のいいことはいいけど、動物や植物や地球はどうでもいいことになってしまうし、それよりもなにより生命至上主義になってしまう。

そうすると生きることが何よりも一番大切だというおかしなところに落ち込んでしまう。

たぶん、ここを勘違いしてる僧侶は多いと思う。

でもそうじゃなくて、きっと仏教でいうならば自我をおくべきはもう一つ上の場所なんだろうと思う。

もう一つ上というのを言葉で表現すると急に宗教じみた言葉でしか表現できなくなるのが嫌なのだけど、人間も動物も、植物も、もっとっもっと大きな部分に自我をおくということは、同時にそのはかりしれないサイズに自我は無我になってくるのだと思う。

究極のところの話なのだけど。

どこかに置くというよりも、どこにでもおいていいのだけど、それはどこか特定の場所ではなく、流動的にあるべきであるということなんだろうと思う。

それは芯をなくして、主体性をなくすということとは違う。

まだうまく言葉にできないのだけど、生きてると生かされているの感覚の差はここから生まれるのだと思う。

仏教においてこの生きてると生かされているの感覚的な違いは、些細なことのようでとても大きな事なのだと思う。


POSTED @ 2012.09.06 | Comment (0) | Trackback (0)

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