Title: 昆布×梅干し。

ここのところの総括。

この3週間で一番感じたのは、人の死は間違いなく縁であって、その一つの死によって残された人の中にはなにかを残していくのだということ。

その縁は近い遠いに関係なく、意識するもしないも関係なく、人が死ぬということは、きっとめぐりめぐって自分に何らかの影響を及ぼしているのだと思う。

そう考えれば、日々自分はいろんな影響を受けているし、日々自分の周りは縁に満たされている。

自分の想いや思想や心は、環境の投影であり、環境が変わればいくらでもかわりうるものであり、変わらないなんてことは幻想だ。無常という言葉は、なにか特別な真理でもなんでもない、ただのあたりまえ体操だ。

それと変化しないものは死んだものだけだっていままで思っていたのだけど。

この3週間少しずつ朽ちていく亡骸をみていて、死んでも人はつねに変化をしているし、それはお骨になっておしまいかと言えばそうでもなくて、実存がなくなっても変化をしていて、その変化は間違いなく世界に影響を及ぼし続けているということを、まざまざと感じた気がする。

それとなんとなくだけど、ざっくり括れば「すごい人」というものの持っているオーラというものが何なのか少しわかった気がする。

それは自分のやるべき事をしっかりわかっていることであり、その責任を果たすためにまっすぐであることであるし、それは言い換えれば腰を据えて自分のやるべきことをやっているという姿勢なんだろう。

正直言えば、自分のやるべきことや、進むべき道、そして自分の責任を果たすという事へしっかりと腰を据えている人ってたぶんそんなに多くないんだろうと思う。自分に関して言えば、いつもここ一番で言い訳しているし、まだ自分にできることはなんなのか、自分がどこへいきたいのかつかみ損ねているし、そのつかみ損ねているということを、なによりも自分の言い訳にしている。

しかし世にいうなんかオーラあるよね、と言われる人には、環境的に腰を据えるしかないところで生きていて、そこに覚悟と責任を背負ってて、その顔こそが力を生み出すのだろうと思う。そのデメリットはその過程において、自分の道の外にあることには、恐ろしく冷静で、無関心にも冷酷にもなれるということなんだろう。

なんかそれがよくわかった。

あと。ひたすら毎日昆布と梅干しのおにぎりをたべていて。

いままで昆布のおにぎりなんて嫌いだ。好き好んで食べるもんかい。と思ってたのだけど、選択肢が2つしかないと嫌でも食べないとしかたないので食べていたら、この3週間で昆布のうまさに気づかされた。

現代は選択肢が多いし、自由度が高いから、自分の好きなものを自由に選べるのが当たり前だけど、きっとだからこそ幅も世界も広がりにくいのだな。

入り口ぐらいではあまり好きになれないものこそ、本当は心の底から好きになる可能性っていうのを秘めてるかもしれないのだ。

そう昆布が教えてくれたのだ。






POSTED @ 2012.05.12 | Comment (0) | Trackback (0)

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