Title: めめんともり。

あんたにおれの気持ちがわかるか。

あんたなんかにがんばれと言われたくないとか。ぬくぬくとして何も失っていないのに、失った人に親切をして満足するなとか言われたとしても、がんばれと思ってしまう気持ちは湧いてくるし、それが湧いてくることは止めようもないし、止める必要もない。

いろんな事を加味したら、がんばれなんて言えないし、なんて言えばいいかわかんないというのが本音だとしても、そこで言葉がでなくなるくらいなら、口に出してたたかれるほうがましだと思う。

悔しくて泣きながらでも、それでもがんばれと言えばいい。

びびって言葉を選ばなきゃ口に出さなきゃいけないような世の中なんかくそくらえだと思う。

勘違いと、誰かの偏った思い込みと、自分本位な一言と、情報に基づいた根拠と、幅広い視点と、選び抜かれた一言と、どちらを使ったって、目の前の人間の心に与える影響なんてどちらも正解だし、不正解だ。

大事なのは使い手の問題だと思う。

正解だけを選びながら、さもそれが崇高であるかのような世の中くそくらえだと思う。

みんながびびりながら、自虐的になって正解ばかりを手探りして、あたりさわりない言葉のあふれるような世界はくそくらえだと思う。

正解だけが世界を動かすんじゃないと思う。

時に不正解を大きな声で叫ぶことで世界が回り出すことだってある。

そもそも。

はじめから他人の不幸を肩代わりなんかできないんだから、その時点で、すべての行為の根本は自分本位なんだ。

でもそれでいい、というよりもその中でしか生きられない。

それと、あんたが不幸になれと。とかいう人は、どんなに深刻な状況に置かれているとしても、被災者であろうとなかろうと、悲しいことだと思う。その人のために、それじゃだめだぞばかやろう。と本気で言える人間がいないということが、この世の中の弊害だと思う。

きっと仏陀なら、ばかやろうとか感情的な言葉を使わずに、その人が自分で気づいて、また歩き出せるような言葉をかけられるのだろうと思う。

くそう。




POSTED @ 2011.04.08 | Comment (0) | Trackback (0)

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