32才になった今日。何をしていたかというと。
スコップとガイガーカウンターを片手に、園庭の数値をはかっては、数値の高めなところの土を掘り返していたのです。挙げ句の果てに、砂場の砂をすべて入れ替えることになったので、職員総出スコップで砂場の砂をとにかく掘り出しては、砂袋に詰め、掘っては砂袋に詰めてを繰り返していたのです。
しかしまぁ、いまだ肋骨も完治せず、正月の呆けの身体にはちときついのです。
しかも、砂場って、掘っても掘っても底が見えなくて、掻き出しても掻き出しても、終わりが見える気がしないのです。そういう作業はそうとうメンタルに来るのですよ。終わりのない重労働。
なんの因果で生誕の日に砂まみれになって、こんなことをしなければならないのだと、ぶつぶついいながら、心の中でなんども安西先生の「あきらめたらそこで試合終了ですよ」を唱えながらひたすらにスコップを振っていたのです。
んで、数時間かけてなんとかやりとげましたとさ。
なんて、なんの落ちもないこの誕生日。
そんでもって。
ひたすらに穴を掘り、ひたすらに終わりの見えない作業をしていたら、ふと、自分がここ数年ですこし上手になったことの1つに「やりすごす技術」があるな、なんてことを思ったのです。
なんか若いときは、勢いやノリでなにかを押し切ったり、短期集中でなにかを片付けたがるし、すぐに結果を求めたがる傾向が強かった自分が、最近は長いスパンで物事を考えられるようになったり、抱えている仕事が「育む」という分野に属するすぐに結果のでないものばかりで、焦ってもしょうがないという状況の中で過ごしてきて、
例えば、1つのプロジェクトや計画、もっといえば、思い描いているものを実現させようとするときに、自分のモチベーションの波が最高潮になってそこでつっぱしって、でもなかなかうまくいかったり、障害にぶつかりながら、数ヶ月、もしくは1,2年もしたら、初心にあったモチベーションもさがって、つまりは飽きちゃって、これは自分の本当にやりたいことじゃなかったとか、こんなことに意味はあるのだろうか、なんてもっともらしい理由と言い訳をつけては投げだそうとしたり、周りの人を振り回してきたのだけど。
きっと、そんな程度自分にできることなんてたかがしれているのだ。
本当に思い描いているものを実現させようとしたり、組織の中で働いたりするときには、どんな形であれ、「続けていく」ということがなによりも大事なのだと思う。
でも心の温度を一定に保ちながら、何かを続けていくということは至難の業で、むしろムリなのだと思う。
にんげんだもの。
モチベーションなんていつも沸騰寸前にしておくなんてこたできない。
でもそのテンションのさがった自分を、いかにやりすごして、また自分でぽこぽこと温度をあげていけるかどうかということが、何かを続けていくこと、そして思い描いているものを実現させるときにはなによりも大事なのだと思う。
それは初心忘れずということでもあるのだけど、初心なんて簡単に忘れちゃうのが既存設定なのだよ。
だって。
にんげんだもの。
なんか。
ここ数年農業、とはいっても幼稚園の庭レベルのものだけど、野菜を作ったり、稲作をやってみると、「続けていく」ということから学ぶことは本当に多いと思うのです。
「続ける」とは一言で言うものの、「続ける」っていうことのなかには、きっと「手を抜く」も、「やり過ごす」も、「自家発電」も、「許す」も、「あまえる」も「よりかかる」も。そういう類のものがたくさん含まれているのだ。そこに含まれたものの一つ一つを上手にして、磨いていくことが何かを「続ける」ということに繋がってくるし、「続ける」ことが上手になれば、きっと思い描いているものをもっと明確に自分のものにしていくことができるのではないかと思う。
そう信じてる。
そんで、帰りは首都高をぶっとばしながら、モンパチのスコールをひたすらに聴ききながら帰りましたとさ。
ちゃんちゃん。
そんなとんちの日。