Title: 311

自分では意識してるつもりはないけど、自分の発言は完全に「思想、哲学、宗教クラスタ」というところに分類されるそうだ。自分のツイートを見ている人からそういわれて、改めて自分の考えることを客観的に分類すればたしかにそうかもしれないと思った。

そういう前提の上で、ここ最近自分の中に散らばっていたことや、様々なツイートを見る中で感じたことを時系列に沿ってまとめておこうと思う。リアルに自分の感じたこのなので感情的な部分も含まれてて、きっと不謹慎だと思う人も、腹の立つ人もいるだろうけど、できるだけリアルなまま残しておきたいので、そのまま書き留めておもうと思う。備忘のために。

地震の起きたときは幼稚園にいて、ほとんどの子どもは降園していたけど、子どもたちとご父母の方々をあわせて50名近くの人と、職員が園内にいて、その子どもたち全員を無事に避難させて、帰宅させることができた時の安堵感は一生忘れないだろうと思う。それから家に8時間かけて戻り家族の無事も確認できたのだけど、、その時に自分でもびっくりしたのは、地震がおさまって、幼稚園の子どもたちを送り届けたときも、家族の無事が確認されたときも、家族に会えたときも、安堵もしたし本当に安心したのだけど、でも気持ちはしっかり保てていたのに、本堂に入って、少しはがれ落ちた壁にまみれたご本尊を見たときにはじめて、緊張の糸がきれて、いろんなものがこみ上げてきて、本堂でしばらく座り込んだ。

そこで自分の中で想像以上に阿弥陀さんの占めるウェイトは大きかったのだなとしみじみ感じた。同時に、きっと自分は何があっても、本堂さえあればいつでもお寺も自分も立て直すことはできるなと思った。

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夜が明けて、被害の状況が報道され、テレビに映し出される被害状況を見て、はじめに感じたのは、人間の非力さとか無力さとか、一夜にして、こんな状況になってしまって、一瞬で日常がこんなに一変するなんて、人間はいつもこの世の支配者のような顔をしているけど、本当はこんなに無力なんだということを痛感した。

でもそれから、被災した方々の状況をみていて、はじめに無力だと感じた人間の中にある、底力とか、強さとか、そういうものをまざまざとみせられた気がした、各方面からの支援に関しても同様にそう感じた。この一夜で、人間の無力さと強さと、その両面を一気に見せられた気がした。

人間は儚くも強い。

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その後の世の中の流れをみていて、支援の為の義援金を募ったり、現地に足を運ぶ人たちがいるのをみて、自分はここでテレビを見てることしかできないのかと思ってすごく自分の無力さを感じた。

それと、義援金を送ろうと思った時に、なんか暖かい部屋で、テレビをみながらクレジットカードで義援金を送る自分の中にある矛盾とか、後ろめたさとか、なんかそういうジレンマを感じていてもたってもいられなくなるような感じがした。

それでもそれは大事な事だと思うし、理屈ではなく被災地を復興するのにはお金が必要で、そこにある思いや背景なんかよりもどんな形でもお金を集めることは急務だと思うし、自分がもちゃもちゃしてるうちに、そういう行動をすばやくできる人たちは本当にすごいなと思った。

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そんな中不謹慎狩りみたいのが始まって、自粛自粛、不謹慎狩りムードの中で、なにか物資を送ったり、お金を寄付したり、有益な情報を拡散することだけがそんなにえらいのかと思った。

アニメを流したテレ東が不謹慎だといわれたけど、あれに救われた子どももたくさんいる。

なにもしなくてもただこの数日を笑顔でいることだっていまできることの大切なことだとも思う。

東北に比べて状況は切迫してないけど、それでもこの首都圏でもはじめての大きな地震を経験して、その中で、自分の親や子どもを安心させることに一生懸命な人もいるし、なにかしたくても願うことしかできない人もいるし、それでも十分にいまこの状況でしかできない大切なことだろうと思ったし、こういうときだからこそ普通に生活する、そのあたりまえに全力を注ぐことを忘れちゃいけないと思った。

そういう人が普通のツイートをするのを批判している人をみて、自分の価値観でいいたい放題いいやがって、そういう人がいつも正義を振りかざして、何食わぬ顔で人を踏んづけてることにも気づかないんだとすら思った。

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スーパーのレジや駅とかで駅員や店員とかに怒ってる人とかみてて、ニュースはあくまで自分の生活とはかけ離れたところで起きているものだと思っているからそういうことができるわけで、もしかしたら目の前の店員さんや駅員さんが東北出身とか、親戚が東北にいるとか、そういうこともっと想像したらいいのにとか思った。ただの想像かもしれないけど、そういうことをすこし頭に入れて行動するのを「思いやる」ということであり、自分の中に落とし込むということなんじゃないかと思う。

自分の中に落とし込まないところで、表面的なところだけいい人っぽいのはすごい嫌だから、自分はできるだけそういう人にならないようにしようと思う。

なんか他にも、みんなが自分の事として受け止めていれば、そんなこと言えないだろうな・・・と思うような発言をする人が多いように感じた。なにか行動をする時、目の前の状況に、しっかりと自分を置き据えて考えれば理屈じゃなく、おのずと答えが出てくるし、行動できるんじゃないかと思う。目の前の人を我が身と同じように考えるというのは簡単なようでむずかしいのだと思った。

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支援とか心配とか祈りとか、こういうときこそ、目に見えるアクションが必要なのは誰でもわかる。だからこそそこで大事なのは、アクションにだけにスポットをあてるのではなく、そのアクションを通して、その先にいる人にまでスポットがあたるようでなければならないんだろうと思う。

目的と手段はいつだってごちゃごちゃになりやすい。

義援金も物資の支援も、それだけが目的はなく、あくまでそれで一人でも多くの被災者の方が笑顔になれるかどうかであって、その目的から逆算して考えれば、支援の方法にも幅をもたせることができるのだろうと思う。

ただ状況をよめない勘違いした支援だけには気をつけなければいけない。ものには順序とタイミングというものがあるから。

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ツイートを見ていて、ツイッターのすごいのは、世の中の空気みたいなものを感じられることだと思った。

それに、この短い文章を何度も発信することで、その人の人柄みたいなものがほんとによく浮き彫りになっている気がする。積極的に発言する人(拡散やデマも含め)、周りの様子をうかがいながら最低限の発言する人、正論に反証する人、一歩引いてる人、開き直ってる人、身内の心配をする人、ひたすら共感する人、テレビに文句ばっかいってる人。

こういうときこそその人の人間性がよく見えた気がした。

口ではりっぱなこといってても他人事な人がいるなと思うこともたくさんあって、自分も自分目線になってることすら気づかない他人事のような発言には気をつけようと強く思った。

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買いだめ騒動で思い出した逸話。

極楽も地獄も、食事の時には1mもある長い箸を使っていて、自分の箸で自分の口に食べ物を入れることができない。極楽では、テーブルを囲んでいる人が、お互いに食べさせ合っている。地獄では、お互い争っていて、食べることができず空腹のままであるという逸話がある。

いま被災地では、少ない食べ物をお年寄りや、子どもたちに先にと譲り合い、みんなが協力をして、みんなでがんばろうとしている。あの地獄ような状況において、佛の心のようなものがみえた気がした。 

一方この首都圏においては、我先に必要以上のものを買い占めるということが起こっていて、水にも食べ物も切迫しているわけではないところでこのようなことが起こる。

被災地と首都圏どっちが地獄の様相だと思った。

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支援が日本レベルから世界レベルに広がってきて、いろいろな思惑があるだろうこともふまえても、はじめに日本人って本当にすごいな、日本人でよかったなと感じた気持ちが、だんだんと人間っていいなと思うようになった。

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物理的なケアだけでなく、メンタルの部分のケアがこれから必要になるんだろうと思う。メンタルがしっかり保てれば人間は大概のことががんばれるんだと思う。逆にメンタルが保たれなければ何億円あろうと、物資が整おうと、本当の意味での復興には時間がかかってしまうんだろうと思う。

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地震のあと白骨の御文を読んで、いままでにないくらい自分の中に腑に落ちた。

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誤解を招きそうな表現なんだけど、災害に遭うのが不運なんじゃなくて、何事もなく生きていることが奇跡なのかもしれないと思う。

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昨日幼稚園で、朝子どもを迎えるときに、お母さんたちから子どもを宜しくお願いします。といわれたり、地震の時に園にいた子どものお母さんから涙ながらに、子どもを守ってくれてありがとうございますといわれて、改めて人の命を預かるというのはこういうことなんだと思って、その重さになんかいろんなものがこみ上げてきた。

昨日の卒園式も今日の終業式も、全員を家に帰すまで、気が抜けなくて、胃が痛いくらいで、もう全部放棄して正直逃げ出したいくらいの気持ちのときもあるのだけど、そんな一言をかけてもらえてありがたいし、たいしたことはできないけど、これから先も自分ができることは精一杯やろうと思えた。

被災にあった地域の幼稚園や保育園でも、たくさんの保育者たちが全力で子どもたちを守ろうとして奮闘したんだろうと思う。きっと救いきれなかった命とかもあったんだろうと思うと、本当にやりきれない気持ちになる。

きっとこれから被災地でも保育者の力が絶対に必要になるときがくる。その時にその人たちが顔を上げて子どもたちに向き合ってくれることを切に願う。

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なんかいまだ不安も心配も続く毎日だけど、今回の地震の件で、はじめは被災地に向けてなにかしなきゃとか、なにができるかとかいろいろ考えて、無力を感じたり、その中でも自分にできることをしたりしながら、今日まで過ごしてきて、ここにきてなんか自分の中でばらばらになっていた行動原理みたいなものが、やっと1つに集約されてきた気がする。

なんかまだうまく言葉にはできないけど、こういうときだからこそ、あたりまえのことをあたりまえに精一杯やろうと思う。

POSTED @ 2011.03.18 | Comment (0) | Trackback (0)

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