Title: さだめとかそういう。
もわっとした昼下がりに、原付にのって近所までお届け物に行く。
車道にでて、アクセルをまわした瞬間に、いろんなものがこみ上げてきて、夏が来たんだと思った。そんな気持ちを味わいながら、なんかいいことあるかもなんて根拠のない妄想をしながら回り道をしたりする。そして日が少し落ち始めた頃に神楽坂にいって、一杯あおって、深夜の静まりかえった街を横目に家まで歩いて帰る。
そして明日は園の盆踊り。
確実に着実に、頭も身体も、準備ができてきた。
もう線香花火買ってもいいんじゃないかと思う。
なんか昨日で今年が半分終わって、今年を振り返りつつ夜道を歩いていて、いろんな意味で、本当にいろんな意味で、結局のところ自分の幸せ指数というのは、こうやって手の届く範囲のことで十分なのだと思った。
それと、いろいろなことを総合して思うのは、結局のところ心から誰かを好きになるということは、その人のいろんな表情をみたいということなのだと思う。表と裏は対になっているから、それはいうなればポジティブな表情だけではなくて、ネガティブな部分も含めてなのだろうと思う。好きな人の悲しい顔は見たくないなんて言うのは、頭ではじき出した大義名分に過ぎなくて、きっと本能的に悲しんだ顔もみたいはずなのだと思う。そうじゃないと合点のいかないことが結構あるのだ。そしてそれはある種の覚悟でもあるのだ。
結局はその覚悟を愛と呼ぶのだと思う。
言葉ではうまく伝えられないのだけど。
なんか覚悟と言えば、最近、日本人も白人も黒人も、男も女も、15才でも、90才でも、結局は自分と同じ人間なのだということを妙に実感する。
そしてその実感の中にもなんかある種の覚悟みたいなものが見え隠れしているのだ。
覚悟というのはまだしっくりこないのだけど、言い換えればそれは、さだめという単語に表せるような類のもののような気がするのだけど、それをかみ砕いて味わうにはいまは時間が足りないから、もう少し反芻しながら保留。
この間ある人と議論をしていて思ったのだけど、きっとある程度宗教とか仏教を学んでくると、その視点や見え方を流用しつつ、武器にして相手を完全にたたききることってできるのだと思う。でもそれはきっと一番やってはいけないことなのだと思うし、仏教や宗教をそういう使い方をしてしまったら終わりなんだと思う。
例えば。
結局のところあんたは自分のことは棚に上げているだけだし、この間のあなたはこう言った後にこういう行動をとっていたけど、今言っていることと矛盾しているし、それに気づいてすらいない、それに自分の足下に踏みにじられてるものが見えてもいないのに、だれかをどうにかしてやろうなんて、おこがましいにもほどがある。まずはその一貫性のない自分の事を捕まえるところからはじめたら。
なんて相手を感情的にあおっておいて、くいついてきた瞬間に
そもそもそんなに感情的になって自分を見失うような人が、広く物事が見えているとは思えないし、感情的になった時点で、この議論は不毛なものになったし、自分の感情すらコントロールできない人がえらそうになにか語ってるのとかちゃんちゃらおかしい。
とかいいたくなるときもある。
たまに議論がどういうものかもしらずに、自分の意見だけを主張して、人の話を遮ってまで他人を批判して、結局自己満足の自慰のようなことしかできない奴とかがいて、本気でやりこめてやろうかと思うし、いっそのことひと思いに・・・なんてことがよぎるのだけど、それは脳内妄想だけにとどめておいていわない。結局はそこにのっかったら自分もスパイラルの中なのだ。と冷静に言えるようになっただけ大人になったのだと思う。
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時間というのはなんて無情なんだろうか。
時が解決してくれたり、時がすべてを許してくれるなんてこともがあるけど、それと同時に幸せな時間とか、かけがえのない瞬間なんてものもどんどん飲み込んでいく。
なんか、時間という概念と、仏教における姿勢というものは通じるものがあるのだろうと思う。
究極に無情であることは、究極に寛容なのだと思う。
POSTED @ 2011.07.01 |
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