Title: 阿弥陀。

光市の事件に関して、真宗の人間として本当に救われるべきは加害者の元少年である。そして自分がこういう発言をしたときに、少なからず不快な気持ちをしたり、こういう発言がまったく理解できないと人がいるということこそが、阿弥陀が本願を立てられたなによりの理由である。と言い放たねばならないのだろう。

昔の自分であれば、それを迷いもなくいい、あくまで加害者の元少年に目を向けるということを忘れたくがない為に、意識的にそうしていたのかのかもしれない。

でも今は少し違う。

元少年こそ救われてほしいと思う気持ちには変わらないのだけど、しかし当然被害者も救われなければならないし、元少年の対する死刑に安堵する人もまた救われるべき人であり、それを取り巻き、ああでもないこうでもないという人達もまた救われるべき人なのだ。

うまく言えないのだけど、場面や状況や、その事象に応じて、それぞれの立場が違えばどこに立っても人間は同じことをいい、同じことをする可能性を秘めた生き物なのだ。

つまりは阿弥陀の本願は、どこか個別の状況やケースなんていう視野の狭いものではなく、もっと大きな所をみていたのだなと、いうことを最近実感するのだ。

阿弥陀のサイズを体感としてどう感じるかという点で、方便法身としての絵像や立像の枠を体感として越えていくような感覚が少しづつわかってきたような気がする。

最近こういうニュースを見る度に阿弥陀がやっと本来の姿形のないものになってきたような気がする。


POSTED @ 2012.02.21 | Comment (0) | Trackback (0)

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