Title: Meat meets me。

一銭にもならないことを考えたい気分なので焼肉について。

第一回 いい焼肉屋ってなに?

お肉好きを公言していると、いい焼肉屋知らない?ということをよく聞かれます。その度におよそハズレのないお店をお伝えすることは晩飯前なんですが、そこをもう一歩踏み込んで「焼肉」というものについて考えてみたくなりました。

最近つくづく感じるのは、いいお肉をだす店=いい焼肉屋でもないということです。

国産和牛A~ランクとか、なんちゃらブランド牛、~熟成肉、牝牛のみ、などなど。たしかに肉そのものの品質の差というはありますし、肉質も全然違います。おいしいお肉をつくってくださる全国の畜産農家の皆様いつもありがとうございます。

いい肉を提供できるということは、肉の目利きやパイプなどがしっかりしているということですので、(このパイプというのはとても重要で、希少な部位や新鮮な肉が定期的にはいってくるパイプというのはどこの焼肉屋にもあるわけではなくそれもお店の力の一つでもあると思います、ハラミとタンだけはいくらお金を積んでもこのパイプがしっかりしてないといいものが仕入れられないそうです)無論そのお店はおいしいお肉を提供してくれる点では間違いなくいい店なわけですが、

あちこちのお店を食べ歩く中で、肉質的にはとてもいいものをだしているのにインパクトに残らない、またここのお肉がたべたい!と思えない店があったり、肉質だけでいえば、おそらくもっといいところがあるだろうに、がつんとインパクトがあって、またこのお店でたべたい!と思える店があるわけです。

その違いは何かということです。

結果からいうと、部位によって特徴が異なる肉を、食べ手にどういう形で食べて欲しいか。そこに作り手である店主の想いのようなものがのっているか否かだと思うのです。想いとかいうと目に見えない非科学的な熱量的な問題だと思われそうですがそうではなくて、その想いは様々なところに見てとれます。

その一つは肉の切り方です。肉は切り方一つでうまさが格段に変わると思います。

例えば、焼肉屋でカルビ1人前を注文した時に、どれくらいの量が、どのくらいの厚みで、どのような形でくるのかというのはお店によって全く異なります。最近では1人前という形ではなく、店側の食べて欲しい形、サイズで部位別に提供してくれる店も増えてきましたが、ここの違いに作り手の意図があるかどうかということですが、作り手の意図というのはつまりは食べ手の顔を想像しているか否かだと思うわけです。

いい肉質だからといって、スライスしてそこそこの大きさで一辺倒にだせばいいかといえばそうではないわけで、それだけで肉のパフォーマンスを台無しにしてしまう場合もあります。

筋切りなんて当然だと思うかもしれないけど、普通に筋を落とし切れてないものや、余分な脂を落とし切れていないものがそこそこの値段ででてくることもあるし、厚切りでインパクト大なのだけど解凍を含めた下処理が不十分な状態のタンがでてくることもある。

逆に、カルビとしてはだいぶインパクトあるサイズでだしてきてるのにかかわらず、絶妙なサシ加減と切り口、余分な脂が一切無く、そのサイズをぺろりと食べても胸一杯にならないものもある。また食べやすく火が通りやすいように、隠し包丁がいれられていたり、ロースの同じ部位を切り方やサイズを変えてより肉質を楽しめるように提供している店もある。

それはただでかい塊でだしとけば喜ぶだろうという話ではなく、その肉の部位にあった食べ方で、その肉の魅力を存分に伝えているかどうかだと思うのです。そういう工夫にであうと作り手の肉に対する愛を感じるわけです。

個人的にはイチボというメニューを頼むとその仕事の差がとても顕著にでるように思います。肉質によって繊維を断ちきるのか、繊維にそってきるのかそれだけで"うまい"も全然変わります。(繊維を断ちきったほうがサシの見た目がいいからといってすべて断ち切ってしまうと焼いて肉が縮んでしまうという残念な場合もあります)

きっとベストな形でベストな部分を提供しようとすると様々な無駄がでてしまうのだろうと思うのだけど、そこに無駄をださずに、どうベストな状態を保つかということに取り組む姿勢、その葛藤、苦悩が1人前の皿の中に見てとれることもあるわけです。

(どうしても肉の切り方によってでてしまう半端な部分を裏メニューとして提供してくれる店もあります)

「焼肉」というものは、もはや「カレー」や「ラーメン」と同じレベルで日本独自の進化を遂げている食べ物だと思います。

肉を焼いて喰らう。その人間が本来持ちうる原始的な欲求はもはや一つの文化にまで昇華しかけている。といっては過言だと思いますが、間違いなく独自の進化を遂げています。そこに伴って昨今の焼肉業界は様々な特色を打ちだして他店との差をつけようとしていますが、そこで我々消費者が忘れてはならないのは、そこに作り手の想いを感じられるかどうかではないかと思うのです。店のネームバリューにつられ、値段につられ、ブランドにつられ飛びつくような肉人であってはならないのです。それはひいては牛に対して、命に対しての感謝の念でもあるのです。

そしてそれは焼肉というものに関わるすべての底上げ、そして独自の進化を遂げる中で息づく日本の心を守ることでもあると思うのです。一口に焼肉といっても、それはとても奥が深いものだと思うのです。

いい焼肉屋とはなにか?そこに答えを見いだすのであれば、それは一枚のカルビ、一枚のロースの中に、そこにつながる全ての縁、願いが、心地よいサシとともにのっている店であるということです。

そんな焼肉に出会えることを今日も願って。

Meat meets me

見渡す限りに広がる明日に、おいしいお肉があらんことを。

ビバ、ヒコバンバン。

POSTED @ 2015.05.26 | Comment (0) | Trackback (0)

コメントを書く。