つくづく人生というのは、不可抗力の連続にどう向き合うかということなのだと思い知らされる。
理屈で片付くことは、所詮理屈で片付くことなのだ。
この不可抗力をどう処理するかを考えていくということが生きていくということなんだろうと思う。結局のところ生きるというのは、幸せになるためにあるのではなく、生きていれば時々幸せなこともあるかもしれないよってくらいのものなんだきっと。
小児病棟には、いろんな管に繋がれて、病室に横たわっている子どもたちがたくさんいて、あっちこっちでアラームが鳴ってて、泣いてるこがいて、そこにいる親たちや、そこで働いている人たちを他人事のように眺めながら、生死を語るには自分はまだまだ生死を知らなすぎると思った。
そして、あたりまえの日常をあたりまえに感じて、なにか物足りないと思うということは、つまりはそれを幸せと呼んでいいのだきっと。
もっと頭ではないところで知らなきゃならないことがたくさんある。
学ばされることばかりだ。
世界は善知識そのものだ。
しかし年をとればとるほど、自分の中に仏教がなかったらと思うと空恐ろしくなる。