Title: ぢっと。

雪降れど、我が心ウキウキならざり、ぢっと手を見る。

*

先日の法事で白骨の御文を読んでいるときに感じたこと。

その法事には3世代+故人の友人がきていたのだけど、つまりは亡くなったおじいちゃんの奥さんである、おばあちゃん、その娘、そして孫、そして親族と、おじいちゃんの友人がいたのだけど。

そこで白骨の御文を読んでいて、ふと、今日ここにいる人達はこの、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なりの文章を聞いていて、この「白骨」になにを重ねているのだろうかということが浮かんできて、それはきっとそれぞれの立場によってこの「白骨」がだれのものであるのか変わるのかも知れないと思った。

この「白骨」に自分を重ねている人もいるだろうし、自分の親を重ねてる人もいるだろうし、おじいちゃんやおばあちゃんを重ねている人もいるだろうし、親しい友人を重ねている人もいるかも知れない。あたりまえといえばあたりまえだし、いまさらかといわれそうだけど、いまさらそのあたりまえのことがなんか妙に心にひっかかった。

そこになにを思うかは、すなわち受け手の死がどの距離にあるのかに比例するわけで。そうおもって白骨の御文を読んでみると、読み手によってこの文章の染み方は全然ちがうものになるように思う。またそれは同時に、死に付随する悲しみについても受け手によって深さを変える。

最終的に、この白骨は紛れもない自分であるのだというところにいきつくことが、後生の一大事だとしても、白骨の御文の引用で「他人事でない我が事として死を受け入れる」というだけでなく「白骨」を今の自分がどこにおいているのかという入り口から、それぞれが死と悲しみの距離感をさぐるというプロセスとしてもこの御文はとても意味があるのではないかと思った。

教えっていうのは、自分がこうだと解釈していても、突然違う見方にうけとれたり、同じ文章でも自分のフェーズが変わったときに、新しい意味を見いだせることがあったりして、自分のフェーズや、心の変化って本来は目に見えるものではないけど、こういう時に間違いなく自分が変化していることが目に見える気がする。それは時に良くも悪くもあるのだけど・・・でもいまの自分の解釈を絶対的に鵜呑みにしないことは大事なのかも知れない。ああ無常。

何百回も読んでいる文章にいまだにはっとすることとか、ほんとおもしろい。仏教おもしろい。真宗おもしろい。結局の所、自分の目に見えるものすべて、次の瞬間、よくもわるくも、いかようにでも変わっていくのが生きているということなんだろうに。ああおもろ。

本当に年をとればとるほど、手の届くところに、宗教とか仏教とか真宗があってよかったと思うし、その絶妙さに心躍る。


POSTED @ 2014.02.05 | Comment (0) | Trackback (0)

コメントを書く。