Title: ぽやっと。
つくづく、自分の判断基準において大事なのは、楽しいか楽しくないか、気持ちいいか気持ちよくないかなのだ。物理的にも精神的にも。
つまりは楽しくて気持ちよいものが最上級なのだ。
いや別に下世話な話ではなしに。
いや半分は下世話な話なのだけど。
なんか抱えていたものが1つ片付いて、すこしぽやっとした時間を過ごせているものの、来年はもすこしぽやっとした時間を過ごしていきたいと思う今日この頃。なにかに追われていない時の感性と観察力は、なにかに追われている時の数倍はあるだろうなということを実感として感じるわけです。
いつだって先ばっかり、前ばっかりを見据えて、顔を上げていれば見栄えはいいかもしれないけど、それだけじゃ見落とすものもあるってなもんで、今は今にしかなくて、案外今手の中にあるものを本気で観察してみれば、大概の答えは手の中で見つかるのだと思う。
それと最近感じるのは、境界線はなんであれ、曖昧なほうがいいのだということ。
例えば住むところもそうで、昔の家というのは、家の中と外の境界が今よりもずっと曖昧だったのだろうと思う。だからいつもどこか社会との接点があって、生活することや、子どもを育てる過程において他人が介入しやすい環境だったのだろうと思う。それと公私の距離が近いということは、言い換えれば逃げ場があるということなのではないかと思う。
そそくさと社会に逃げる、そそくさと生活に逃げ込むみたいな行き来がいまよりももっと緩かったような気がするのだ。
今はどうしてもドアを一枚隔てて、家と外との境界がはっきりしすぎてる。構造上の問題においても、昔の家って言うのは、縁側という場所があったり、外との境界をうまいこと曖昧にしてあったなと思う。
境界がはっきりすることでどんなデメリットがあるかと言えば、しっかりとした境界で自分を囲ってしまうことで、人に関わらなくてすむようになってしまって、人に関わらないと自分の立ち位置もわかんないし、自分を律することもできなくなるし、外から見えないことで、どこまでもほっとかれてしまうことが可能になってしまうことなんだろうと思う。だからいつまでも部屋に引きこもれてしまうのだ。
これは住む場所に限ったことではなくて。
いろんなものの境界をもっと曖昧にしたらいいのにと思う。
なんか権利が確立されて、個が保証されることで、その代償に逃げ場がどんどん失われているような気がする。
そんなんじゃ生きづらいのよ、なんでもかんでも線引きされるのが。
人間関係も全く一緒だ。
自分の自信のなさを補うために肩書きや、代名詞なんてものを背負ってみれば、そんな線引きのせいで、どんどん自分の逃げ場は少なくなっていくのだろうに。
もっと曖昧でいいのだ。
個にこだわることは、むしろ個と一番遠ざかる行為なのかもしれないと思う。
自分をつくる要素は大概自分でおもっているよりももっと複雑なのだろう。
んで、突き詰めていくと。
最高に楽しくて気持ちがよいところというのは、沈黙と孤独に満たされた場所であるのかもしれない。
これはいい意味でなのだけど。
沈黙も孤独も、どちらもそれを楽しむにはそうとうの自信と確信と本気でなにかに向き合った時間がなければできないのだ。
右往左往して、ああでもこうでもないといいながら、いろんな主張や衝突を繰り返して、しがらみにしがらみを重ねても、最後の最後はクレバスに落ちて死ねるくらいに強くなりたい。
なんて。
寒くてすべての活動限界が夏にくらべて40%ダウンでATフィールドも崩壊寸前なのだけど、なんとかそれを食い止めようと熱燗と焼酎のお湯割りを流し込む。
しかしながら人間も動物なのだ。
いくら抗ったところで、冬に全力で活動できるようにはできていないのだと信じたい。
ああねむい。ああお腹空いた。
にくだにくをくれ。
さて今年もあと少し。
もうひと師走。
POSTED @ 2011.12.06 |
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