Title: mun。
心にひっかかってた案件が片付いたと言うだけで背中に羽が生えたようになるシンプルな構造なのだけど、でもずっと羽が生えたようなところにいると、真っ逆さまに落ちたくなる衝動に駆られるめんどくさい自分。
今日帰り道で考えていたこと。
昔、それがどれだけ昔は忘れたのだけど、タイムマシンがあったら過去に戻りたいと思うことが多々あったような気がするのだけど、今はもしタイムマシンがあったとしても1秒たりとも過去には戻りたくないと思っている。
それがいつからそう思い始めたのかどうかは定かじゃないけど、今の自分になるまでに、またこれだけの時間を費やさなければならないのかと思うと気が遠くなる。
きっと戻ったところで今以上の自分になれることはないような気がする。
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今日、自分で話していて改めて思ったのだけど、学ぶということは知らないことを増やすことであるし、わからないということを認識することであるし、世界の広さを体感して、自分のサイズを正しく感じると言うことだ。
学べば学ぶほどに、自分のサイズをミリ単位で知ることが出来るのだと思う。
喉の渇いていない馬は水を飲まない。
どうやったらいつだって喉を渇かせていられるのかなのだきっと。
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匂いとか温度を感じられる写真が撮りたい。
最近写真を撮っていないわけじゃないのだけど、撮れば撮るほど自分の感性の乏しさに悲しくなる。心がぶるぶる震えるような時間にそんなにあえていないというのも大きいのだろうと思うけど、なんていうか、最近自分の撮る写真は、機械に頼って自分に頼らなくなってしまったようなものばかりだ。
もっと感性を。選択肢を。引き出しを。
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無理をしないと、そういうサイズになっちゃう。まだまだぶかぶだの靴をはいてるのに、さもぴったりなサイズのように大見得きっていたい。
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感性は今を感じる力だ。
ありのままをありのままにうけとめる心だ。
思惑や算段や、自分の思い込みや過去の経験や、まだきてない未来への妄想ではなく、今をしっかりと感じる為のアンテナだ。
感性が鈍ると体感が鈍る。
心が震えなくなる。
文字や知識を血肉だと勘違いする。
一歩も動かず汗もかいてないのに、たくさん身体を動かしたような気になる。
そんなのくそくらえだと思ってる。
だから感性がほしい。
ぞっとするぐらいの感性が。
もっと。
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無常の足跡を聞けなければ、切なる求道心は起きず、切なる求道心なくば聞く耳持たず。聞く耳もたば自分を知らず。
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最近、ふざけてるのかまじめなのかわかんないときがあると言われることがあるのだけど、最高の褒め言葉だとおもっているし、ついに自分もそういうところまできたかと喜んでる。
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星が見えないことに苦情をいうようなナンセンスなことはしなさんな。
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最近偽僧侶があちこちで托鉢してるので気をつけましょうっていう呼びかけを見るのだけど、極論、お布施をするのに相手が本物か偽物かなんて関係ないんじゃないかと思う。
本物じゃなきゃお布施や托鉢しても意味がないと考えるのはそもそも、本来の意味をはき違えてるわ。
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mun
POSTED @ 2012.10.25 |
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