Title: 77777キロの先

よく仏教関係の人間が、災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。 死ぬ時節には、死ぬがよく候なんて良寛さんの言葉を引用して話をして、現実を受け入れよう的な話をしているのを聞くのだけど、原発の問題にしてもそうなんだけど、日本中の人がみんな災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。 死ぬ時節には、死ぬがよく候なんていいはじめて、それが心から浸透したら、普通に日本は滅びていくんだろうなと思う。

そりゃ一見理想的だし、仏教の至言っぽいのだけど。

でも絶対にそんなことにはならない。人間が人間である以上は、日本が滅びたって自分が安らかに涅槃にはいればそれでいいのだ・・・って・・・んなこたあるかい!というほうが自然だし、むしろみんなが指くわえてそれを受け入れるなんてことにはならない。

でも、人間がそうはならないからこそ、そんな言葉をつかって引っ張らないといけないのだろうと思う。

一見矛盾したこのパラドックスにこそ仏教のおもしろさがありミソがあるのだと思う。

たまにそれで日本が滅びるならそれまでだし、それが仏教の至極であり、それが理想だという人がいるのだけど、言葉を選ばずにいうのなら、そういう人は、自分がそういう囚われの中にいることにも気づかず、本質を見失っていることにも気づかない、かわいそうな人だなと思う。むしろ真っ先に救われるのだろうと思う。

言うなれば、もし万が一仏教ががんばりすぎて、本当に世の中が仏教者のいってることに迎合して、みんなが指くわえて涅槃に入ろうとしたら、またなにか教典の言葉を拾って逆側に引っ張らなきゃいけないのかもしれないと思う。それはきっと偏ることで、間違った解釈が広まって、本質を失うからだ。

人間は本来、本質をしっかりつかめるほどできちゃいないのだ。だからこそ、方便があるのだ、方便をつかって、心のバランスをとるのが仏教の意義なのではないかと思う。

そう考えたら仏教の役割ってのは、いつでも大きな流れに対して反比例の力を働かせることであり、その反比例の力が少しでも反対側に傾いたら、また反対側にバランスをとらなきゃいけないんだろうと思う。

それを中道というのだろうと思う。

誤解を恐れずにいうのなら、昨日と今日いってることが違ったっていいんだと思う。

なぜならそれが方便だからなのだと思う。

そんなの説得力ないし、意味わかんない、0なのか1なのかはっきりしてよ。昨日は1だっていったのに、なんで今日は0なのさ!という事がもう、自分は0か1でしか物事を判断できない狭い人間であるという自覚ができていないなによりの証拠であって、

そこが自分の立ち位置であるということを信じて疑わないからこそ苦しみが生まれているんだということに気づいていない証拠なんだろうと思う。

曖昧であるということは本質はつかめないところにあり、すべての現実は事象であり、つねに流れているということである。だから本当はつかめるものなんて初めからなにもないのだ。ただそこの流れの中で、溺れずに浮かぶ方法を仏教では説いているのだと思う。

急流を迂回することもあるし、時に深く潜って波をやり過ごすこともある、またある時は、上を向いたままぷかぷか浮かぶこともある。

それをこないだは浮かべっていったのに、今度は潜るの?こないだは潜れっていったのに今日は迂回なの?もうわけわかんない!ときれたところで、そりゃおかしな話なのだ。






POSTED @ 2011.06.15 | Comment (0) | Trackback (0)

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