折り重なって咲く花片を見上げながら、お腹の底から湧いてくる開放感を味わいながらも、今年は後ろめたさと背徳感に似たものを感じたりもした。
桜をみて、一杯飲んで、少し高いところから夜の東京の街を眺めて、ビルの赤い点滅を眺めながら、自分の中に湧いてくる気持ちのひとつひとつを文章化しようと試みるも、途中でそれを投げだして、世の中は文章化できなくて、デジタル化できないものにあふれていて、それをそのまま味わっていることがいいときもあるんだと自己肯定をしながら、いつだって最後に自分を動かす動機は、理由のないとめようのない感情でありたいと思いながらも、思いとは裏腹に頭でっかちになっていく自分に気づかないふりをしたりする。
昨日夢をみた。
夢の中で、自分はなにか特別な超能力みたいなものが使えるようになっていて(それがどんな能力かはわからない)そこでうかれてこれで自分の人生は思い通りだ。人生バラ色だぜなんて思っているところに、マザーテレサのようなおばあさんがでてきて、自分にこういった。
なにか特別なことができるということと、幸せになれるということは全く別物だ。なにもできなくたって幸せにはなれる。
そこで目が覚めて、しばらく放心して、その言葉を反芻して書き留めた。
普段滅多に夢なんてみないのに、すごい夢だ。なんて思いながら、朝、境内の桜を眺めていて。
たぶん。
単純な自分は、死ぬ日に窓から桜が見えて、風がふいてきて、桜が舞い落ちる様なんかが見えたりしたら、我が人生に一変の悔いなしとか思ってしまうんだと思う。
結局、自分が何をしてきたかとか、どんな風に生きてきたかとか、幸せな人生だったかどうかなんて、そんな程度のもので、至極生きるということはそういうことなのかもしれないと思う。
だから、磨かねばならぬのは外側よりも内側だと思うし、花が咲くこと、風が吹くこと、季節が変わること、そんなあたりまえにある流れのひとつひとつに、しっかりと心をとめられる自分でありたいし、そういう自分をおざなりにしないことは結局は幸せの近道なのかもしれないと思う。
あと。
特別感というか、いうなればオンリーワンであるという自覚というのは、それが刹那的でも幻想的でも自分を酔わせるし、そこに酔えることこそが人間の弱さであり、魅力であるのだと思う。そしてそれを人間くささとよぶのだと思う。