Title: 13人の刺客

13人の刺客をみて感じたこと。

時に正義はなんであるのか、義とは何なのかを考えさせられた。

13人の刺客は正義であったのか悪であったのか。残虐な悪行を尽くす斉韶を討つということは、はたして本当に万人の大願だったのか。

斉韶の最後の言葉「いままで生きていて今日ほど楽しかったことはない」この言葉は、彼の中にある淀み、そして言動行動のすべてに一貫性を持たせたと同時に、斉韶は狂人であり、自分とは違う悪しき人間なのかといえばそうじゃない、現代に於いて、斉韶はいくらでも生まれうるのだろうとも感じさせられた。

歪みや淀みには必ずしも理由がある。世の中の正義とは、目に見えるわかりやすい形の対立のうわっつらをさらうようなところにあるのだろう。歴史の中で繰り返されてきた、こうした戦いの中心にあった各々の義。

斉韶にも強い義があったと思う。そして斉韶を守り抜こうとした鬼頭半兵衛もしかり。

義とはつまり信念であり、動機付けである。

そこには本当は善悪も優劣もないのかもしれない。

それぞれの義が強ければ強いほどにそれは時にぶつかりあう。しかしそのぶつかりあいの中にこそ、「生きる」ということが凝縮されていたのかもしれない、侍はそのぶつかり合いの中にこそ、命を実感として掴み、その実感こそを灯火としていたのだろう。

そしてその中で、侍は命を落とすときに死ぬのではない、義を失ったときに死ぬのだということを体感として持っていたのだろう。

この映画を通して、生きると言うことは義を貫き、決してそれが側面的であろうと、人にどう見られようと、己の信念を貫いたときに本物になるのだということを見せられたような気がした。

現代を生きる自分にどれだけの義があるのだろうか。どれだけの信念をもっているのだろうか、義を、信念を持つ人間はそれを守る為に強くなるのかもしれない。

正しいことをするのではない、自分の信念をまっすぐに、どこまでも強く貫いたときに、それは必ず本物になるのだ。侍というのはそれを自分の生き様で証明し続けてきた人達なのだろうと思う。

いわば侍とは、そういう生き方の呼称でもあるのかもしれない。

この映画について語るだけで、しばらくは肴に困らなそうなほどに、自分の中に多くを残したと同時に、背中を押されたような作品だった。







POSTED @ 2012.02.27 | Comment (0) | Trackback (0)

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