Title: 被災地支援について

例えば。

被災地の人たちがこういっていた、といって被災者の言葉を紹介する人の話をきいていて、被災地に限ったことではないけど、自分がこれはいい話だ!これはだれかに紹介したい!この想いを誰かに届けたい!っていう気持ちはとても大事なことなのだけど、それはあくまで自分のフィルタを通した断面的なものであるということを知っておくって大事じゃないかと思う。

特に、ここ数ヶ月実際何度も足を運んだり、被災地支援をされている人たちがたくさんいて、そういう人たちの話を聞いていると特にそう感じる。

被災地に行けば行くほど、感情移入して、自分の関わった人たちを何とかしたいという想いが生まれて当然なのだけど、それがだれにとっても当然かと言えばそうじゃない。

嫌な言い方をするようだけど、震災からこれだけの時間が経ち、少なくとも関東においても、支援や、被災地へ想いを馳せるという機会は減ってきたように思う、いうなればブームが去ったみたいに、一時期の支援ブームは去ったのだ。

被災地でもきっと当初のような物資や食料と言った支援というよりももっと様々な形(雇用や教育、健康など)での支援が必要になってきているのだと思う。

それなのにまだ、がんばろうだの、1つになろうだの、被災地での美談や、悲談ばかりを話して、自分の主観で感じたままを伝えれば、それだけで、人を動かせるかと言えばそうじゃない。

このフェーズにおいて大切なのは、被災者と非被災者の間にはいって活動をしている団体やボランティアの人たちが、支援を広く広げていくためには、よりわかりやすく、非被災者が支援できる形を構築する事じゃないかと思う。

だから、自分がこう思うのだし、被災しているのだから、みんなも当然そう感じるだろうみたいなのはちょっと違うと思うのだ。ちょっと違うというよりもそういうフェーズから少しみんなの空気感がシフトしてきたように感じる。

今だからこそもしかしたら自分の想いが、必ずしもそのまんまみんなも共有できない可能性があるということも想定して、情報を発信したり、支援を求めていくやりかたを考えないといけないのだろうなと思う。

具体的に言えば、残念な話だけど、がんばろう日本とか、1つになろうとかそういう類のフレーズではもうなにも伝えられないし、こちらはなにをどうがんばればいいかわからないのだ。

そういうキャッチーな言葉や美談やちょっといいはなし程度で人を動かせるフェーズじゃない、ここから先に支援をつなげるには、わかりやすい形で、わかりやすい支援の形を非被災者の人たちに伝えていく努力を現場にいる人たちがしてくれたらいいなと思う。

最近仕事をして思うのだけど。

いい仕事がでいている時って言うのは、チームで動いていれば、みんなが情報の共有ができていて、今自分がなんの為に動けばいいかが明確になっているときなのだと思う。その為には、全体を一番把握している人間が、かみ砕いて細かく、一人一人に何をすればいいか指示を出さなければいけないのだと思う。

みんながんばろうとか、みんなで気をつけようとか、気を引き締めようとか、そういうありきたりな言葉だけではなにも変えられない時がある。誰がどうがんばろうとか、どことどこをどういう風に気をつけようとか、気を引き締めるためには、毎日鏡に向かって服装を整えようとか、具体的な指示がなければいけないのだと思う。

例えば会社が傾くような危機的状況においては、リーダーが細かく指示を出さなくても、みんなそれぞれ何をすればいいかくらいわかるけど、それが見えにくくなったときにこそ、だれかがそれをやらなきゃいけないのだと思う。

いま現場で被災者の為に一生懸命働いて、ボランティアにいっている人達は本当にすごいと思う。自分は一度も被災地には足を運んでいないし、直接なにか被災地の力になれたかなんてことはわからない。

でもそれでもなにかできることがあるなら、身近にいる人たちや、被災をされた方や、被災地に関わる人たちの為になにかしたいと思っているし、その思いは消えていない。きっとそう思っている人たちはたくさんいると思う。だからこそ、今明確に動ける形を現場にいる人たちが先頭に立ち提言してくれたらいいのにと感じる。


POSTED @ 2011.11.22 | Comment (0) | Trackback (0)

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