Title: 我等は忽然として無窮より生まれ。
旅の記録を読み返しながら、せっせと書き起こしていていろいろと繋がったのだけど。
例えば、ブッダガヤからバラナシまでいこう。という大きな指針は持っていながらも、実際はブッダガヤにつくまではそのルートなんか決まっていなくて、事前に車をチャーターして仏跡を巡りながらバラナシまでいっちゃおうかとか、電車で行こうか、バスで行こうか、そもそも電車とか何時にでているんだろうかとか、どこでチケットを買おうかとか、ガイドブックや情報を仕入れながら妄想するのだけど、実際現地に行ってみればすんなりとそのルートは、いろいろなことが作用して、自然と無理なく1つに絞られるのだ。
そしてなんだかんだと目的地は中継地点になり、その先へと、あれよあれよという間に進んでいくのだ。
自分の期待を存分に裏切りながら。
旅をしているとこういうことがよくある。
もちゃもちゃといろいろ考えて悩んでいても、足を動かすと、出会いがあり、縁があり、運があり、トラブルがあり、いろんなことが作用して、自ずと自分の進むべき道へ押し出されるのだ。
その度に、自分の意志や想いが現実へ及ぼす影響なんてものはこの程度なんだなと感じる。
これを自分では、想像の限界、意志の限界というのだけど、それを感じる度に、世界は自分の手の内にないことにあふれていて、自分というものをしっかりと1つの方向に自分を押し出してくれるのだということを実感する。
話は飛ぶが、今年の8月末をもって5年前に起業した会社も9月からは6年目になるのだ。立ち上げた当初にはいまの形は想像もしてなかったし、この5年間いろいろなことがあった。幼稚園やお寺の傍らということもあり、いろんな形で多くの人に迷惑をかけたし、わがままもいわせてもらった。本当にいいことも悪いことも、たくさんの一期一会もあった。それでもなんとか5年間会社を存続しながら、それなりに結果も出しつつここまできて、その経験がなんか今旅の記録をまとめていて妙にシンクロしたのだ。
なんか。
ああでもないこうでもない、こうなったらどうしよう、こういう方法があるのではないかとか、いろいろと考えるということは大事なのだが、そういう時は大抵自分が立ち止まっているときなのだ。
自分の意志や想像なんてものの見通しはいいとこ数分後か数時間後、へたすりゃ明日のことすらままならないのが人間なのだ。目標というのは大事だと思う。でもそれはあまり厳密でなくていい、旅の目的地を漠然と掲げるみたいに。
プロセスなんてものは、そちらの方角に足を踏み出した瞬間に、自ずと決まってくるのだ。自分の意志に関係なく、できることはできる、できないことはできないのだ。
こりゃ思うになんでもそうなんだ、何事もなにか踏ん切りが付かない、踏み出せないことがある時というのは自分の足が止まっている時なのだ。
人生は旅であるなんてニュアンスの言葉を数多くの人が残しているが、なんかふとそれがわかる気がしたのだ。
人生は旅のようであり、旅は人生のようなのだ。そしてそれを思えば、生きるということを意識したときに、人生に例えられないものなんてないのかもしれないとも思う。
それはなぜかと言えば、世界のすべては自分の脳みその想像できることを遙かに超えているからなのだ。そして人生楽しむということはその流れにのるか否かなのかもしれない。
怖じ気気づいたらいつまでも世界は変わらない。足を出すのだ。
たぶん。
今自分は自分の意志で足を出していると思っているし、まだまだその感覚を持っている、でもこの先いつか、この足を出す感覚でさえも自分の意識ではままならないのだと思える日が来るのかもしれない。
その時にはきっと立ち止まっても歩いても同じなのだ。
世界は常に流れているのだ。そして止まることなどはじめからできなかったのだなんてことを言うのかもしれない。
紹興酒が効いたのか、中華料理の帰り道、ふとそんなこと考えていたのだ。
POSTED @ 2011.08.28 |
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