Title: 秋。
上野の松坂屋に行った。
ここにはいつも昭和の残り香のような雰囲気が漂っている。
機械感むき出しのエレベータの重そうな真鍮の扉がガラガラと音を立てて開く。
そこに乗り合わせた老夫婦と小さな男の子をみていたら、
「百貨店に行こう」と祖父に手を引かれていたころの自分とオーバーラップする。
自分は昭和も終わりのほうに生まれ、真っ最中に昭和という時代を作ってきたわけではないけれど、
それでも自分の中では平成はまだ最近のことのように感じているし、
こうしてなにか昭和のアイデンティティのようなものに哀愁を感じる心は育っている。
きっとこれから年号が変わり、昭和も一つの時代として、自分たちが明治や大正を教科書で学んできたように一つの知識に変わっていくのだろうと思う。
そこにさみしさと、なつかしさと、清も濁も包み込むあたたかさを感じられるように生きていきたい。
*
生きるということはどこまでいっても不自由だ。
本当は生きていくことの中に自由なんてものはどこにもない。
だからこそ、いつだっても自由って響きに光があたるのだと思う。
探せば探すほど自由はみつからず。
手を伸ばせば伸ばすほどに自由は遠ざかる。
もし本当に自由というものがあるとしたら、それはもう内側から生まれてくる類のものなのだろう。
*
包丁を買った。
いままで両刃の包丁を使っていたのだけど、はじめて片刃の包丁を買ってみた。
さっそく使うと、感触も使い方も今までのようにはいかない。
まっすぐ切ったつもりでも刃は左にながれるし、慣れないと野菜をまっすぐ切ることもできない。
長年の感覚というのはそうそう拭えるものではなく、使いづらさ、違和感のようなものを感じる。
でもこの違和感や使いづらさを感じたと同時に、それは同時にこの感覚が使いやすさに変わってくる過程を味わえるということで、そうなったときに見える景色がどんなものなのかと、変化できることへの楽しみもわいてきた。
日常や習慣のの中にある些細な感覚、そしてその変化を味わうように生活できるということは、
つまりはそれは平和ということなんだと思う。
*
子どものすごいのは、
おとなのあたりまえが
大発見ってことなんだよな。
POSTED @ 2017.10.10 |
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