Title: みたもの。

青臭くありたいとおもった。

なによりも青臭くありたいと。

いつもフル稼働してる部分はびっくりするくらいに動いてないのに、そのかわりに研ぎすまされてくる部分があって、そこが研ぎすまされている時自分はとても満たされるのだ。いつまでもそこに身をゆだねていたいと思うほどに。

肌感覚といえばそれまでなのだけど。

その感覚を信じて、違和感を信じて、その感覚に身をのせる感じがたまらなく好きなのだ。

頭も身体も解放しているときには、自然といままでの経験や体験、自分の中に蓄積されたものが意識をこえて働きかけてくる。だからこそ経験は大切だし、失敗も苦しみも成功や喜びと同じくらいに大切なのだ。

自適其適に。

自分はどこでどうありたいか。それをあらためて確認できたような2日間だった。

スナフキンも言ってたな「僕は自分の目で見たものしか信じない。けどこの目で見たものはどんなに馬鹿げたものでも信じるよ」って。

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無意識に働きかけてくる経験の具体例。

人が集まる場所において、例えばそれが街だとして。その街のどこに自分好みの場末な店があって、どこに宿があって、どのあたりに柄の悪い地域があって、どのあたりが安全なのかとか。どこまでが旅行者の踏み込める領域で、どこからは踏み込まない方がいいのかとか。どういう路地をすすめば自分の好きなものがありそうなのかとか。

目には見えないけど、それが東京であれ、一ノ関であれ、上海であれ、カトマンズであれ、ラサであれ、デリーであれ、バンコクであれ、それぞれ国も規模も違えと、街という一つの集合体の中には共通するものがあるようにおもう。

目に見えて線が引いてあるわけじゃないけど、それぞれブロックごとに色分けされてるみたいに感じる事がある。

それが宿を探すのに絶対に進んではいけない方向とか、この時間に踏み込まない方がいい路地とか、お腹がペコペコのときに進むべき方向だとか、すべてが予定通りに進まずに途方に暮れたときに進むべき道を、肌感覚として時にそれを違和感として自分を導いてくれるように感じることがある。

その時に、ガイドブックやスマートフォンとにらめっこをしていると、見落としてしまうことっていうのがあるような気がして、そういう時こそ目をつぶりたいと思っている。

それは、1か0か、感覚か情報かという二極化した話ではなく、どちらも大事なのに、感覚的な部分が往々にして忘れられてしまうことが多いように感じるわけです。








POSTED @ 2015.04.28 | Comment (0) | Trackback (0)

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