Title: 鉛玉。

来年はいってくる子どもたちの面接をする。たくさんの子どもの中で何人か、いまの園の体制では受け入れが難しいという判断をせざるを得ない子がいる。

その子はそこで人生で初めて、いわゆる普通の子とは線を引かれてしまう。なにが普通でなにが普通じゃないかということはとても深い問題なのでここではそれに言及せずにおくけれど、両親と子どもを目の前に、その線を引かねばならない決断を迫られた時の、このお腹の底に鉛のボールをぶちこまれるような感覚、なんど味わっても重く苦しい。そして同時に自分の子どもが目の前で線を引かれた親の気持ちを思うと苦しみをこえて吐き気すらする。

その線を隔てるものは優劣でもなければ上下でもないのだ。

日本は世界で一番天才の出にくい国だそうだ。

でもその理由の一端はまさに今日自分の引いたこの線なのだと思う。多くの人が興味を持たないようなところに興味を持ち、その興味の為にはほかの全てを遮断できたり、極度のこだわりからうまく他者と関われなかったり、その子たちの中にきっと天才の欠片あるのだと思う。本当に紙一重なのだ。しかしそれを育てられる土壌は今の日本には極めて少ない。それを理解して育てられる人材も少ない。

親も、自分の子どもがずば抜けて天才であってほしいとか、秘めたる才能があってほしいなんていいながらも、本当はそんなことを望んでいなくて、当たり前に話ができて、あたりまえに友達と関われて、あたりまえに食事が出来て、あたりまえに集団生活がおくれることに安堵する。そうでないと不安になり発達センターに通い、隣の子と比べて、子どもの本来持ちうるものを、とてもおおきな物差しにくくりつけて矯正しようとする。それがいいか悪いかではなく、それが多くの親というものなのだと思う。自分も含めて。線を引かれてもなお我が子を心から信じられる親がどれだけいるのだろうか。

それにもし、仮に幼稚園で理想を、個性をぶちぬいても、子どもたちは小学校にあがらねばならない。

そこでピカピカの泥団子を、集合時間も無視して作りつづけるような子どもの居場所は確保されない。

その現実に、昔は小さなトゲのようだったものが今ふつふつと大きくなってきて、それがジレンマになってのしかかる。なにを教えて、なにを育てればいいのか。

青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光

今日阿弥陀経をあげながら、その一文がいつもよりも深く心に突き刺さった。

そんな世界は娑婆には一つもないからこそ教典に記されているのではないかという気にすらなる。

力及ばずに、様々な要因をねじ伏せるだけの力もなく、自らもその一端で、くそみたいな線を引かねばならないこの悔しさをいつか払拭するために、今日の想いを書き残しておく。

いまにみてやがれ。

もっともっと力が欲しい。



POSTED @ 2013.11.05 | Comment (0) | Trackback (0)

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