Title: いじめ。

先日森口尚史氏が連日マスコミで叩かれているということを書いて、

それを許容して、追い詰めないということがいじめをなくすということだ。そういう奴もいるよね、そういう時もあるよね、そういう自分って誰の中にもあるよねと言えることがいじめをなくすことだ。それにそういう心持ちが結局は自分自身の首を絞めないと言うことであるし、もうすこし住みやすい社会をつくるということに繋がるのだと思う。

とか書いたのだけど。

夜中にふと目覚めて、そういうことを書くと多くの人が賛同してくれたり、共感してくれるのになんで世界は変わらないのだろうかとか思い始めて考えていたのだけど。

例えば、森口氏程度の事であれば、追い詰めたんなや。と言えるのかも知れないが。

仮に、本当に仮にイメージだけど、それがどこかの電力会社の社長だとしても、献金問題に揺れる大物政治家だろうと、森口氏の時と同じように、賛同して共感するのだろうか。

本当のことをいえば、相手が森口氏だろうとだれだろうと、追い詰めたんなや。といえなければいじめはなくならないと思う。

どの程度の悪いことまでなら追い詰めてもよくて、どの程度の悪いことなら追い詰めてはだめなんて線引きは曖昧だし、結局許せる許せないは自分に実害があるかどうかであるかもしれないし、その尺度は人の数だけある。

電力会社の社長や大物政治家は許せないけど、森口氏だけ許せるというのもあくまで自分の尺度だし、そんな関係ない人間はどうでもいけど、同じクラスのあいつだけは許せないというのも大差ない。

いじめを本気でなくすと言うことはそういうことだ。しかしそんな社会は必ずしもいい社会かといえばそんなことはない。

汚職も利権もはびこって、ばれても追い詰められないなら、正直者が馬鹿を見る世界だ。

そんな社会にしてはいけない!という想いがあるとするなら、マスコミが森口氏に執拗に質問をすることもそうなのだけど、やめたれや。と思っていても、ああいう姿はそういう意味では何らかの抑止力になっているのかもしれないし、一方的になくしたほうがいい!とも言い切れないのかも知れない。

それに、実際、震災後の政治家の対応や、電力会社の対応に対しても、同じようにやめたれやと思ったかといえば、今回ほど思ってない自分がいるわけで、ここで許したら何も変わらないし、国民は馬鹿じゃないぞ!謝って済むなら警察いらねぇんだ。なんて思ってたようななかったような。

そう考えると、いじめは大罪の抑止力という考え方もできるのかもしれない。

何が言いたいかって。

いじめのない社会は、ただいじめがない社会にすぎないという程度だし、もっとつっこんでいえば、そんな社会は今よりもいいかといえばそんなことはわからない。もっと根深い問題がでてくるだけのことだろう。

それにマザーテレサやガンジーなら別だけど、そもそもいじめをなくすことなんてできないのだろうな。

だからせめて、そういう時に命を絶たなくてすむにはどうしたらいいか、そういう時にどういう自分でいたらいいか、どう打破するか、ということを考える方が大事なのかも知れない。

生きると言うことは清濁併せ持ってて、正義も悪も、光も影も、どちらかだけが存在することは出来ないし、切っても切り離すことはできない。それをちゃんと自覚しなくちゃいけないのだろうな。

表だけをすっぱ抜いてみんなで拍手するのなんてそもそも絵に描いた餅であって、それもまた視野の狭さなのだろうな。

どんなことでも自分の尺度で物事判断してるのは紛れもない自分で、森口氏の事で、そうだそうだ!いじめはやめろ!と言ったところで、自分もいつ手のひら返すかもわからないし、一貫してないのは同じなのだ。

そういう自分をわかってないとすぐに天狗になって傲慢になって、自分だけは違うしわかってる見たいな顔しちゃうからな。そしたら、結局みんな同じところに陥る。

なんて。

深夜の手紙は読み直せというが、読み直さないでUPして寝る。

凡夫凡夫。

しかし仏教ってすごいよな。こういうことがもう何千年前にも考えられていて、すでに教典に書かれているのだから。


POSTED @ 2012.10.16 | Comment (0) | Trackback (0)

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