Title: そうそう。

ここ数日で感じたお寺とか僧侶っていうこと。

最近では法事で家にお参りに行って、家族3代くらいがみんなあつまって畳に正座してお経をみんなであげるみたいなスタイルは少なくなってきたのだけど、いまだそのスタイルをずっと貫いているお宅にお参りに行ってきて、法事が終わってみんなでお茶を飲みながら真宗の話なんぞをする。

そして、そこのおじさんが、亡くなったうちのおじさんの話や、おじいちゃんの話を教えてくれる。それと同時に自分がそこの息子さんやお孫さんに、その家のおばあちゃんに自分が小さいときに聞いた話を話したりする。お宅の先祖はもともと愛知から来てね、戦争中はここのおばあちゃんと、おじいちゃんが2人で焼け野原だったここに家をたてて、うちのお寺とはそこからのつきあいで、戦後はよくうちの先代のおばあちゃんと一緒に歌舞伎見にいってたみたいですねなんて。

お寺に来ると、自分の息子や親には話さないような話をしていく人もたくさんいるし、色々な話の中で、きっとその家の若い世代よりも、その家のルーツや、お墓にはいってる先祖の事を知ってるという場合もある。

前にトミーと呼ばれている犬がいて、その家のおばあちゃんが富十郎という歌舞伎役者が好きで、そこから名前をつけたのだけど、呼びにくいから通称トミーと呼んでいるという話をよくお寺でしていたので、その話をお孫さんにしたら、そんなことは知らずに初めからトミーが本名だと思っていたということがあったり。

また、お通夜に行って、何年も話だけ聞いていた息子さんに初めてお会いした時も、亡くなったお父さんがお寺に来る度にその息子さんの話をしていたので、むこうがびっくりするぐらいその人の情報を自分が持っている時もある。そんで息子さんは親父ってそんなに話好きな人だったんですねぇなんてこともある。

そんなやりとりをしながら、小さなことだけど、こうやってお寺や僧侶を介して少しづつ世代が繋がっていけるということは、とてもありがたいことだと思うし、大切な事だと思う。

それと。

先日めずらしくうちの住職(親父)と通夜葬儀にいったのだけど。火葬場で骨上げの時に、亡くなった人の娘さんが、アメリカに住んでいて、なかなかお墓参りにこれないので、骨を少し持ち帰っていいかと言われた。

そしたらいつもは、何を聞かれてもいいんじゃないんですかとか適当なことばっかいって、家でラジコンばっかやってる住職なのだけど、めずらしく、

よくそういう風に骨を持って帰りたいという人がいますが、一時的な感情でそうなさりたい気持ちもよくわかります。でもみなさん何年かして気持ちが落ち着いたときに、その骨をどうしていいかわからなくなったり、次の世代になったときに、お参りにいくと、仏壇や棚の隅でお骨が埃をかぶっているのみかけることがあります。

ですからできれば私はお骨を身につけたりせずに、お墓に納骨されたほうがいいと思います。正直いえば骨には特に意味はありません、そこに魂が残っているわけでもありません。気持ちはすごくわかりますが、お墓に手を合わせたり、お墓にこれなければ写真の前で手を合わせるだけでもいいです。大事なのはその気持ちですから、今の自分の気持ちを慰めるという意味で、家にお骨をおいておいたり、身につけたりするのはおすすめできません。

ときっぱりいった。

たまには住職らしいことをいうんだなと思いながらも、そこまできっぱりいうのがめずらしいので、ずいぶんはっきりいったなっていったら、だってまたお墓あけて骨戻したいとかいわれたらめんどくさいじゃんって言ってた。

それはそれで微妙な答えなんだけどでも、こういう会話をしておくことも、聞いておくことも、お寺にとって大事な事なのかも知れないと思った。

それと。

痴呆が進んで日常生活もままならなくて、言葉もほとんどでなくなってしまって、現在は介護ホームにはいっているおばあさんがいるのだけど、先日、ホームで暮らしている間に自宅でご主人が亡くなった。

おばあさんを葬儀に参列させるべきかどうか娘さん達は悩んだそうなのだけど、最後のお別れだし、いくらわからなくなったといっても、自分の亭主の葬儀に参列できないのはかわいそうだということになり葬儀に参列することになった。

おばあさんの元気な頃を知ってるだけに、久々にお会いしてその変わりようにびっくりしたのだけど、それでも終始みんなの話をにこにこしながら聞いてる姿を見ていると、本当に何にもわからないのだろうかと疑問に思うほどだった。

そして葬儀の後、出棺の時に葬儀屋さんが、最後のお別れをどうぞといったら、そのおばあさんが棺にとりすがって、亡くなったおじいさんの顔をなでながら「これから一体私はどうなるの」と涙をこぼした。

火葬場でも、棺の前から離れようとせず、最後までなにかぼそぼそとおじいさんに話しかけていた。

どこまでわかっているのかわかっていないのか、誰にもわからないし、きっと明日になったらまた何事もなかったように過ごすのかも知れない。

でも、そんな姿を見ていて、悲しみとか愛情とか、いろいろな想い出とか、そういうのは記憶に残っていなくても、心の奥底とか、もしくは遺伝子みたいなものに刻み込まれているのかも知れないと思った。

1日1日の些細な出来事の積み重ねで、自分の人生というのはできあがっていくのだと思う。

きっと家族でも好きな人でも、だれでもいいけど、その人に対する想いというのは、小さな感情の積み重ねで、煩わしい時もあるし、めんどくさい時もあるし、顔も見たくない時もあるかもしれないし、逆に頼りにしてる時もあるし、その存在に救われる事もある。

そういうコロコロ変わる感情の積み重ねが自分の人生にはしっかり刻み込まれていて、呆けてしまおうと、話せなくなろうと、耳が聞こえなくなろうと、自分が感情を表現する方法がすべて失われたとしても、そういう時間の積み重ねや、共有した相手への思いというのはきっと心の奥底には刻まれているのだと思う。

それをすごく実感させられた。

そしてそれはすごく大切な事だと思う。

いつか、この話や想いを、おばあちゃんの孫やその子どもに話す機会があったら、元気な時のおじいちゃんとおばあちゃんの話とともにしっかりと伝えたいと思う。

最近、こうやって世代を繋いでいくということが、お寺の持つ大事な役割であるし、僧侶の大事な仕事であると思う。そして自分の記憶や想い出がそこを担っていうということが継ぐということであり、世襲であることの大切な意味なのだと思う。



POSTED @ 2012.10.02 | Comment (2) | Trackback (0)

初めてblog拝見しました。

些細な出来事ということがとても幸せな日々なのでしょうね。

親父の19回忌済ませてからは暫く法要は無いのですが、たまには少ない親戚集まるのも悪くないと思う
歳を取ったと思う今日この頃です

Posted by: sui @ 2012年10月 2日 12:47

コメントありがとうございます。ほんと自分も年とって・・・とはいえまだ30代ですけど、法事のような機会にたまには親族集まって話するのは悪くないなぁと強く思うようになりました。自分のルーツとか、自分繋がるまでの先祖の事とかいままでよりも気になるようななった気がします。

Posted by: RYO @ 2012年10月 2日 16:04

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