Title: 補完。

第三京浜をはしっていて、道路脇に見える煙突から垂れ流される煙とか、吹きだす炎とかをみてて、こういう人工的な構造物に惹かれる自分がいるのはなぜだろうかなんてことをぼんやりと考える。

自然の中でのびのびと育って、一度もビルを見たことない人が、生まれて初めてスカイツリーをみたらきっとその構造物に心奪われるんじゃないだろうか。逆にビルの谷間で育った子どもたちが、深い森の中の巨木や、どこまでも深い湖や、向こうからやってくる雨を目の当たりにしたら、一瞬で心を奪われるのかもしれない。

惹かれるいうことはきっとそういう事なのかもしれない。そしてそれは補完とも、バランスをとるとも言い換えられるのかもしれない。

その人が何に惹かれるのか考えたときに、その人の中にあるものはその対局にあるものなんだろうと思う。それを補完してバランスをとろうとする行為を総称して心が奪われるとか、補完すると言っていいのかもしれない。

そう考えると、心が奪われ続けるということはある種のパラドックスなのかもしれない。

そして心が奪われるということは反作用でもあるのだと思う。

人間の心にはいつだって反作用の力が働いていているのだと思う。

平和な国の人間だからこそ、簡単に人の命を奪って、自分の子どもを餓死させるようなことが起こるのかもしれない。平和は破壊への渇望を生むし、破壊は平和への渇望を生む。ブームが巡り巡ってくるのも同じ理由なのかもしれない。

目に見えるものは100%本質ではない。目に見えるものは本質とはかけ離れたところにある。だからその人を本当に知りたいのであれば、目に見える部分の対極を掘り下げなければいけないのだろうと思う。

優しい言葉や、だれかを思う行動の根底にあるものが、必ずしも愛や慈悲であるかといえばそれは違う。暴力や破壊の根底にあるものが中にあるものが、必ずしも無慈悲で非人道的であるかといえばそれも違うと思う。

目に見えるものだけを、自分の解釈で、自分の中でカテゴリー分けしてるうちには絶対に見えないものがあると思う。つまりは、面と向かって好きだという人間が味方で、ビンタをしてくる人間が敵だとは限らないということなのかもしれない。

そこに気づくことと、気づくだけでなく、それに伴った行動をしていくということはとても難しい、でもそう意識することで開けてくるものがあるのだと思う。

人間ってのはめんどくさいくせにとてもシンプルだ。




POSTED @ 2012.03.28 | Comment (0) | Trackback (0)

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