Title: 火葬場。

火葬場がずっと嫌いだった。

身内が死んで火葬場にいくのも嫌だし、自分が釜前でお経をあげるのも、取り乱す人を見るのも嫌だし、お別れですといって、あのほの暗い釜の中に入れられて、ごうごうと鳴り響く音を聞くのがたまらなく嫌だったのだ。それにあの火葬場のお香の匂いまでも受け付けないような時期もあったのだ。

でも嫌でもなんでも、火葬場にいかなければならないし、取り乱す人も見なければならないし、若くても年老いていても、こうやって最後は釜に入れられて骨になるだけなのだということをまざまざと見てくる中で、ある時、おじさんたちが立て続けに亡くなって、釜に入れられるときに、ふと、ああ、あのほの暗い扉の先はもう浄土なのだと、唐突にその言葉と体感が湧いてきたのだ。

お棺によりそって泣きくれる親族の真ん中で、あまりに安らかな顔で亡くなったおじさんの顔をみていたら、ああなるほど、死んだ人を仏さんというのはなんでかわかったような気がしたのだ。

残された自分たちは悲しみに暮れて、まだまだ苦しんで生きていくのだ。でもおじさんはもう痛くもないし、苦しむこともないし、なんてこたない安穏としたところにいくのだと思ったのだ。

そして、その時に、あの世とこの世は完全に隔絶されてるのだなということに実感が湧いたのだ。

そして金子大栄先生の法話の中で、この世とあの世は隔絶されたところにある、そんな当たり前のことをまずわからなければ、浄土教の意義は失われるというのを聞いて、その時にはよくわからなかったのだけど、それがなんとなく自分の中で了解できた気がしたのだ。

なんか教義の上では、亡くなったら即往生だから、死んだ瞬間にもう浄土なのだけど、でも自分には素直にそうは思えなくて、肉体が残っているうちは別離の情去り難しなのだ。

だけど火葬場で最後のお別れをする時に、あの扉の向こうにいく時には、自分はまだまだ縁があって、もがいて苦しいところで生きていきますので、お先にどうぞ、まあいつか行きますので、その時はお茶でものみましょうと思えるようになったのだ。

そしたら火葬場がそんなに嫌いじゃなくなったのだ。

ただそれは悲しくなったり、涙がでないようになったのではなくて、いまでも誰かが亡くなるのは悲しいし、時に感情移入してどうしょうもないこともあるのだけど、なんか、そうやって自分の感情が揺り動かされる度に、ここが此岸で、仏さんのいるところが彼岸なのだと、そのコントラストをはっきりと感じるできるような気がするのだ。

もしかするとそれは、自己防衛の一種なのかもしれない、月に何度も火葬場に行ったり、そういう場面に立ち会う自分を正当化して、こころの折り合いを付けるために身についたものなのかもしれないけど。

それでもいいと思ってる。

教義がうんぬんとかではない、自分の中では血の通った言葉と体感がなによりも大事なのだ。

先日、午前中葬儀に参列し、午後からは自分の勤めた葬儀で半日くらい火葬場にいて、改めて感じたこの気持ちを言葉に残しておこうと思ったのだ。


POSTED @ 2011.09.06 | Comment (0) | Trackback (0)

コメントを書く。