Title: satya

震災から49日が経った昨日、ご本山では、御遠忌の法要に続き、追悼法要が営まれた。

法要が終わり、梵鐘の音とともに手を合わせお念仏をする。

その時に、ふと手を合わせる意味というのは、意識をちゃんと今にもってくるということなのかもしれないと思った。今、この瞬間に意識を持ってくるということはとても大事な事だと思う、それは簡単なようですごく難しい。

意識というのは今にないことの方がほとんどで、思い煩うことの原因もほとんどは今にないことなのだろうと思う。

過去を思い出し悔やんでも、未来を想像し悩んでも、それは自分の脳みそが作り出した妄想に過ぎないわけで、自分の想像できることや、思い描く通りに人生が進んだことなんて未だかつてほとんどないわけで、確実にあるのはこの一息しかないのだと思う。

手を合わせることで、この一息に意識をして、そこに意識がいけばいくほど、今の重みが増すのだと思うし、その重みはそのまま生きる事への感謝になるのだと思う。そして感謝して今できることをすればいいのだと思う。

そして昨日、法要の最後に静かに手を合わせながら、なんともいえない感覚を味わいながら、感謝というのは、言葉や理屈ではなくて体感の中にあるものだと思った。

その体感さえあれば、どんな言葉をつかっても、どんな立ち振る舞いをしていても正解なのだろうと思った。

この感覚は、タイで感じた感覚と少し似ている気がした。

自分が仏教に関わっていて、おもしろいと思うのは、いつだって体感が後からついてくるということで、そういう経験をしていくと、学ぶという事の本質はいつだって最後に体感に結びつけることなのだと思う。

正直言うと、お寺に育てば、お経もいつの間にか覚えるし、いつだってお念仏を口にするし、手を合わせる習慣というのは物心がついてから今まで、もう30年近くあたりまえになっているのだけど、でも恥ずかしながら習慣づいているものほど、形式に陥っていることが多くて、自分は、形だけのお念仏を平気で口にしているし、衣を着ていれば周りの目を気にして、格好付けてさらっと手を合わせることもできるし、お経だって意味も考えずに、体裁よくそらんじることもできる。

なんか震災が震災がというのもどうかと思うし、いまさらかよと思われるかもしれないけど。

今回のことを機縁にして、あたりまえにあったものに、いままでなかった体感が伴い、自分の中の仏教や僧侶という漠然とした定義が再構築されて整理された気がする。

この御遠忌の間には、葬儀も重なり、法要を勤めて火葬場にいき、悲しにくれる家族の方をみていて、一人の死にこれだけの悲しみと涙があるのだ、テレビで報道されている犠牲者の数字の一つ一つにこうやって家族がいて、友人がいるのだということをもっと強烈に意識しなければいけないし、そこでなにかを感じることと、その感覚を仏法の中に探していくことが、自分にできることの一つであり、これから先に絶対に必要になることだと思った。

なんか。

難しく考えれば難しい事のようだけど。

簡単に言えば、結局は、「ただお念仏」ここに尽きるのだ。

ぐるぐるといったりきたり、もちゃもちゃとしながら、シンプルになれない凡夫っぷりにいざ本願を頼もしく感じながら、スーダラ節を口ずさみながらこのGWを過ごそうと思う。





POSTED @ 2011.04.29 | Comment (0) | Trackback (0)

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