Title: 伊達直人の件

伊達直人の件について、違和感を感じるというツイートをみて思ったこと。

なんかすぐに自分の手の中にあるものと結びつけるのは悪い癖だと思うけど、でもこれこそまさに「悪人正機」のいい例じゃないかと思う。親鸞聖人は、「善人なをもて往生をとぐいわんや悪人をや」といった。自分なりに要約するなら、善人だと言われている人が救われるのだとしたら、当然悪人が救われるはずだということだ。

一見おかしなロジックに見えるけど、今回の伊達直人の件にぴったり当てはまるような気がする。

伊達直人の名前で寄付をしていることが美談として取り上げられて、それをしている人が善人だとしたら、そこに疑問を持って、ちょっと違和感あるな、だって相手にだって都合もあるのだろうし、一方的にそれを押しつけるのもどうかと思うし、他にもたくさんの寄付者がいるのに無名の人たちだけにスポットがあたって、こういうときだけ美談として取り上げるのはおかしい。自分って冷たいしひねくれてるののだろうか・・・と思う人は善人ではないのかという話で。

伊達直人が善人であるとして、それに違和感を感じる人が悪人であるしたら、1つの美談になんの違和感もなく、善人だと思い込めることよりも、1つの問題を自分の中に落とし込んで、足下を確認しながら、ひねくれているんじゃないか、冷たいのじゃないかと自分を内省しながら生きている人が救われないはずはないという理論になるわけだ。

でもここにあるパラドックスは、じゃあ自分は自分を省みてるから救われているんだ、と開き直ればいつだって自分も伊達直人になるわけで、それを「本願ぼこり」といって、元も子もないぞということになる。

浄土真宗の中で善行とはなにを指すのかという定義は難しい。もちろん今回の件で、無名で寄付をするという行為はとても心温まる話ですばらしいと思うし、もちろんそれを頭ごなしに否定するつもりはない。

でもここで大事なのは、人間というのは気を抜けば、簡単にその大義名分の上に胡座をかいてしまい、本分を見失いかねない危うさを持っていることを頭においておく事が大切だということで、それ同時には紛れもなく自分の中にもあることを忘れてはいけないということなんだろうと思う。

いい行いをすることは大事だけど、いい行いとは何であるのかというところに言及をすること、そこに自分なりの想いを巡らせて生きる姿勢というのが仏教的な生き方なのかもしれないと思う。

 

 

POSTED @ 2011.01.12 | Comment (0) | Trackback (0)

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