Title: なんちゃら国。
 
ここのところのニュースをみていて思うのは、

結局の所、なにが正しくて、なにが間違っていて、自分はなにをすればいいのか、それをじっくりと立ち止まって向き合うにはあまりにも世界のスピードが速すぎる。
 
そのスピード感についていくためにはどうしたって表面をなでるようにわかった振りをして、飽和した情報の中から自分の主観や主張に近い物をみつけてむりくりつなぎ合わせて、それがさも自分の姿勢であるように振る舞うしかない。
 
そこには震えるような怒りも、悲しみもない。それはたかだか数ヶ月もすれば、何事もなかったようにビールで流し込めるようなくらいの感情でしかない。
 
そうやって感情に直結しないような自己表現を疑いもせずに習慣にしていたら、いつかなにをしたってつまらなくなるし、心の震えない人間が何をしたって熱量なんて持たない。
  
どうやったら一つの事実に自分の気持ちをしっかりと寄り添えるか。それを足を動かして考えて言葉にすることは、あたりまえなようでこのスピード感の中でそれを行うのはとても難しい。
 
経済をまわすためにはスピード感は失うわけにはいかないのだろうけど、その速度に心や体をついていかそうとしたら必ずどこかに無理が生じる、無理が生じないために、そこに付随するはずの感情を受け流していると「感じる」ってことがどういうことなのか、その機能が人間のなにを補っているのかがわからなくなってしまうように思う。
  
ブルースリーも言うんだ。
  
ドントシンクフィールって。
 
 
*
 
 
僧侶として感じる事。
 
ここの所のニュースをみていて、自分がどうありたいかを思うに、浮かんできたのは、「安心決定鈔」の中の「朝な朝な仏と共に起き、夕な夕なに仏を抱きて臥す」という言葉。
 
次々に報道される情報をみて、その事実の一つ一つに自分が感じる事をつなぎ合わせていくと、本当になにが正しくて間違っていて、なにをどう断ち切ったら負の連鎖が消えるのか「命」というものの価値観すら自分がいまこの日本にいる感覚だけで善悪を決められることなのかどうかわからなくなってきて立ち止まる。
 
歎異抄の4章には
 
慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。かれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々。
 
と書かれている。
 
聖道・浄土のかわりめありがあるとしたら、いまこの瞬間、それがいつであれ「この今」にこそ、そのかはりめがあるのだと思う。
 
この平和な日本で画面に流れる情報をみているだけの人間が考える極めて側面的な事実は、自分の人生をかけて世界を変えようとするモチベーションになるには薄すぎるし、かといって世界の隅々まで足を運び、拘束される危険も顧みずに自分の手と足と目で情報を得ようとするだけの動機付けは自分にはもてない。
 
せめて自分にできるのは表面をなぜてわかった振りをして心を痛めたふりを数ヶ月して、その合間に手の中にある幸せを愛でるくらいのものだ。
 
また真宗の僧侶はそうやって自虐的にも自分がなにかを発すること、そして自らが働きかけることに消極的で、結局なにもしないのだといわれるかもしれないが、いま「いそぎ仏になりて」という言葉の中にある、ふつふつとした静かで、そして確かな強さのようなものを感じる。
 
「朝な朝な仏と共に起き、夕な夕なに仏を抱きて臥す」
 
はげしい怒り、憤り、悲しみ、そこに捕まれば捕まるほどに、自分と彼らを隔てるものはなにもない。
 
目の前の事実がどこからきて、なにが起きて、どこへ向かうのか。そんな無限の可能性と方法論を考えることの中に答えはみつけられないのだと思う。みつけられたとしてもその答えにはいつかまたほころびがでる。もし完璧な答えがあるのだとしたらそれはもう歴史が証明しているはずだ。
 
自分の考える答えがどこにあるのかと考えたときに、自分の身近にはたまたま仏教があり、そこにあるものを指針として確かな手応えを感じているので、いまの自分にできることは、強く確かに「朝な朝な仏と共に起き、夕な夕なに仏を抱きて臥す」ことではないかと感じている。
 
急激な温度変化は持続しない、持続しない感情で事をなしたところでその行動のもつ熱量はなにかをかえるには低すぎるのかもしれない。煮えたぎるような感情を腹の底にマグマのようにたたえている時だからこそ、いま自分のすべきことをもう一度立ち止まって確認したいと思った。
 
救えるのか、救われるのか、自分の役割はなんなのか、命とはなんなのか、その迷い、それすらも丸ごと人間の生み出すものすべてが、慈しみ悲しみの対象であるということは、真理だとか、教えだとかいう言葉に後ろ盾を得るまでもなく、まぎれもない事実だということをここ数日改めて深く感じた。
 
強く深く静かに。


POSTED @ 2015.02.05 | Comment (0) | Trackback (0)

コメントを書く。