Title: あんぐら。

昨日感じたこと。

自分がまだ未熟なのだという前置きをしたうえで。

真宗的にどうなのっていうことも全部無視するという前置きもしたうえで。

最近「感謝」とか「おかげさま」とか「誰々の為にがんばる」とかそういうことを口にする友達が増えたような気がする。たぶん一言で言えば、年をとってきて、いろんな経験や苦労をして丸くなったということであり、実際に視野が広がって、人間1人じゃなにもできないってことに気付かされたのかも知れないし、そういう気持ちになることは大切な事だと思う。

でもなんか違和感を感じるのは、年をとって大人になったら、それを言っておけばしっくりくるし、真っ向から否定されないみたいな、御守り的な使い方してやしないかいということで、それこそそれを盾にして、怠惰の言い訳にしたり、自己保身の大義名分にしてしまったら、成長も鈍るし、なによりも、その御守りを掲げておけば正義みたいな価値観に凝り固まってしまうと、自分が昔なりたくないと思ってたような、余力を常に残して、7割くらいの力をだしたら疲れちゃうような大人になっていってしまいそうな気がするのだ。

別に大人がいやだとか子どもがいいとか中2みたいなことが言いたいのではないのだけど。

例えば、だれかをぶっ殺しても自分1人だけが助かりたいとか思うことは忌むべきことではないと思うし、そういう感情がほとばしって、先走ってたような頃の気持ちは大人になると自然消滅するわけじゃない、ただ大人になるとそういう気持ちが、さもなくなったかのように振る舞うし、そういう感情を「感謝」とか「おかげさま」とか「誰かの為に生きる」みたいな言葉で蓋をして奥底に押し込めるようなのってなんか違うと思う。

そういうことが習慣づいて、そういう感情を臭いもののように蓋して、知らん顔して過ごしてると、本当の部分で人の心がわかんなくなっちゃうのじゃないかと思う。

大人になるとなかなか親友ができずらいのはそれが理由だと思ってる。

表にでる部分をいくら取り繕ってたって、人間は心の中に混沌としたものが渦巻いていて、そういう混沌としたものと共存して、右往左往するからはじめて、人のことを許せるし、許容できるし、袖を振り合わせて、共感しあいながら、その中で自己認識して互いに生きていけるんじゃないか。

そもそも時に殴り合わなきゃ他人との距離をとれないのが人間なのだと思う。

話が飛躍してとっちらかりそうなので、なにがいいたいかって、とどのつまり。

昔自分の中にほとばしってた混沌とした想いだったり、熱さだったり、意欲だったり、好奇心だったり、そういうあふれださんばかりの気持ちみたいなものが、社会の荒波の中で、現実にもまれて、角が取れて丸くなってきたこの30代。

もう叩かれたくないし、現実も痛いほどわかったぜ、とりあえず今手の中にあるものをこれ以上傷つけたくないし疲れちゃったから、甲板に大きく「おかげさま」とか「感謝」とか「誰かの為に生きてる」とか掲げておけば、敵意ある海賊とも闘わなくてすむし、あわよくば大きな船にも助けてもらえるかも知れないしっていって、ぬくぬくと航海してる横で、未だに甲板に「ぶっ殺す」「かかってこいや」とか掲げて経験値積んでるルーキーを指さして、

あいつら子どもだな視野が狭いな、航海できるのは海の神様や、風が吹いてるから航海できてるのにまだそれに気付かずに旅してるけど、おれらはそれに気付いているからえらいよなぁ。それに省エネだし「感謝感謝」っていって自分を肯定しながら進んでたら、

知らぬ間に、お腹がぷよんぷよんしてきて、いざ目の前に大きなクラーケンがあらわれたときに、結局、誰も守れず、自分も守れず、いざその時になって、じたばたあがいたところで、何一つ守れないまま死んでいくだけだ。

「ぶっころす」とか「かかってこいや」とか掲げておけばいいとは思わないけど、「その気になったら刺し違えるぞ」くらいの旗印は掲げてなんぼだろうと思ってる。

自力の極み。どうしょうもない。しかも例えたことでよけいわかりずらくなった。

それがほとばしってた頃を知ってる友達であればあるほど、「ありがたい」とかいって手を合わせて、きれいに取り繕うとする姿勢はふぬけて見えるし、くそくらえと思う。

そもそも「感謝」とか「おかげさま」とかいう言葉の本当の意味がわかるにはにはまだまだ早いのではないかと思う。

POSTED @ 2012.10.05 | Comment (0) | Trackback (0)

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