Title: 海月。

食わず嫌いというのはやはりよくない。

なんでも素直にやってみて、嫌々ながらも体験してみて、改めて自分の中に落とし込めると言うことがあるということを感じた。やってみてやはり嫌いなら、よりつよく嫌いになるということも大事な経験で、そこではじめてその反対側にある自分の好きなことが浮き彫りにされてくるのだきっと。

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ある方が、社会の僧侶に対するイメージをよくしたいとおっしゃる。

そして、今現在、「坊主頭」という言葉が市民権を得てるのは、いままで僧侶が頭をまるめることで社会の中で認められてきた証拠でもあるし、姿形からはいるのは大事だとおっしゃった。

だからまず、すべての僧侶はまず飲酒をやめれば、さらに僧侶に対する社会のイメージや尊敬の念みたいなものはあがるし、そういう決まりをつくってみんな守っていくことが大事だとおっしゃる。

それを聞いていて感じたこと。

そうやって僧侶っぽい格好をして世の中に一目置かれてきて、その上に胡座をかいてきたからこそ、今世の中で僧侶の価値が下がってしまったのではないだろうか。僧侶の格好して、僧侶っぽいことして、それなのに、認められてないからこそ今現状があるのではないか。

無頓着でいればいいというものではないけど、自分がどんな僧侶になりたいかという明確なイメージがあればあるほど、どこに頓着してどこに頓着しないかというのは自然に行動にでるのだろうと思う。

その行動が僧侶のすべてであって、口では僧侶たるものはとかいうのであれば、本尊の前や、食事をするときくらい手を合わせるくらいの所作が身についているべきではないのだろうか。

言ってることとやってることがちぐはぐだなべいべ。

頭を丸めて飲酒しないことよりも、食べるものに感謝して、しっかりと残さずに味わって全部たべることのほうがよほど大事だぜべいべ。

そんで人の目を見て話を聞くことの方がよほど大事だぜべいべ。

その積み重ねだべいべ。

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本当に頭のいい人の議論の切り口はとてもするどい。

痛みを感じないくらいにするどい。

そんで傷だらけになっても、その傷も一晩寝たらしっかりとくっついているくらいに鮮やかだ。

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それと自分の仏教感の中で、反比例の一石を投じ続けること、投じ続けなくても反比例の先になにがあるのかということに思いを巡らせると言うことはとても大事だと思っている。

被害者をたたくなら、加害者に目を向けるべきだし、絶対的な社会悪が断罪されるのなら、絶対的な社会善を疑うべきだと思ってる。

善にしても悪にしても右でも左でも。大きな天秤がどちらかに傾いたときに、その反対側に体重をかけて天秤を真ん中にもってくるということが中道の精神だと思ってる。

自分の微々たる力でその天秤を傾けられるとは思わないけど、そういう姿勢を大事にしたいと思ってる。

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まかせよ。

はい。

ほんとにこれなんだよな究極は。

ほど遠いわ。


POSTED @ 2012.06.13 | Comment (0) | Trackback (0)

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