Title: 思考停止

なんかここ数ヶ月に会った人の中にはおもしろい人も、そうでない人もいたのだけど、それぞれの分野で活躍されてる人たちに共通しているのは、思考停止していないということだ。

例えば、復興支援をしなければと思った時に、生活や家族や仕事があるから、自分は無理とすぐにはならなくて、じゃあ自分のできる範囲ではなにができるのか、自分のできる範囲を広げることはできないのか、その為には、まずなにを片付けなければいけないのか、など思考を拡大させて考えていけるだけの思考法を持っているということだ。

いうなれば心に湧いた想いを、形にするまでの現実的な試算をしっかりできるということだ。

そういう風に思考を拡大していかなければなにをしたって形になんかならないし、そこで湧いてくるデメリットや自分の能力とちゃんと向き合わなきゃ結局ただの口だけのやつになっていくだけなんだろうと思う。

想いとか熱さは大事だ。

だけど、それだけを旗印みたいに掲げて、こういう世界をつくりたいんだ!おれはこんな夢を描いているんだ!と大きなことだけいうのは20代までにしてほしい。

旗印を掲げることは足を動かすための指針であるのに、さもそれが目的であるかのようになってしまっている人のなんと多いことか。

これを自分への自戒として、足をもっと動かさねばと思う。

足を動かしてたやつと、動かしてないやつの差なんてあと数年もすれば目に見えてわかるようになるんだ。

なんか思考停止について考えていて思ったのだけど。

資本主義の世の中で、国家が形成されているというのは、いうなればお金をという価値観を振りかざして、多くの人を思考停止させて国家を成り立たせてるようなものだと思った。

いうなれば、それは生活や社会をシステム化してその歯車の一個を担わせることで、もっといえば家制度をしっかりとして、家族制度を作ることで、深いことや余計なことを考える隙をあたえないということなのかもしれない。

よりよい社会とか、平和とか、もっといえば思想や宗教など、なんでもいいけど、よりよくあるためにはなにが必要なのか、よりよくあるために今自分がなにをしなければいけないかなんてことを、全国民が本気で考え始めたら、国家なんてものはすぐにバラバラになるし、きっと世界なんてものは簡単に崩壊すると思う。

それをさせない為に、生み出されたものが国家であり、組織であり、その趣旨はなにかイデオロギーをかかげることで、思考停止状態をつくりだし、人間の根源的な問題を、人間の創った仕組みやルールの中で生じた問題にすり替えることで人心掌握してそこから得る利権を確保することなのではないかとすら感じる。

そう考えると、究極だけど、よい指導者というのは、なんの疑問を持たせることなく多くの人に思考停止をさせることができる人なのかもしれない。それは時に、カリスマ性で、時にお金で、時に誇りで、時に愛国心で。

そう考えていけば、思考停止という言葉が、いいものか、わるいものなのかなんて議論は不毛でナンセンスなのだ。

それは手段なんだと思う。手段にいいもわるいもない。ただ大事なのはその手段を意図的にまたは意図せずとも操る人間と操られる人間がいるということなのだと思う。そしてそこにはしっかりと利権が存在しているということと、それを享受してる一握りの人間がいるということなのだ。

自己実現をしたいだけの自己があるなら、それを頭にいれて行動し考えておくということはとても重要なことである気がする。

思考停止していない人たちが、社会を牽引していく時に、自己実現をさせるためにはまわりを思考停止させる術を身につけなければいけないということなのだろうか。

なんてね。

とぅとぅとぅ。


POSTED @ 2011.10.06 | Comment (0) | Trackback (0)

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