Title: どろ。
梅雨の季節がやってくる。
じめじめむしむし。けどそれも夏への布石。梅雨がすぎればまた今年も充電期間がやってくるわけで。
ここのところ毎日ひたすらに泥団子をつくり、田植えをしたり、木に登ったり、戯れ三昧なのだけど。
こんな穏やかに見える幼稚園というほのぼのとした日常の中にも、たくさんの苦とかがあって。大人とは違うもっとシンプルだけど根源的な悩みや苦しみと共に子どもたちも生きているのだなとつくづく思う。
取り繕ったり、我慢したり、上辺だけでつきあえるほど器用じゃない分、子どもの世界は時に冷酷だし、好奇心を理性で押さえ込めない分、時に残虐だったりもする。
そんなひとつひとつの出来事や、ひとつひとつの子どもの表情は、そのまま人間そのものなんだと思う。そこに向き合うことはきっとそのまま自分への戒めであり、鏡であって、大人というものに対する警鐘ですらあるのかもしれない。
昔みたいに、だから子どもがいいとか、子どもの頃に戻りたいとか、子どもの心が素晴らしいのだ!とかナンセンスで暑苦しいことをいうつもりなんてもうさらさらなくて、むしろ子どもと関わることすらも自分の糧にしてやろうと思っている。自分のことだからこそ本気でやれるし覚悟ももって望めるのかもしれない。
なんて。
ただ毎日遊んでいるような毎日だという後ろめたさに対する大義名分をこじつけただけなのだけど。
けど昨日泥団子つくってて、僧侶っていうのは、僧侶っていう言葉に捕まっていると、何をしていてもそれは僧侶っぽいものでしかなくて、僧侶という言葉を離れてこそ、結果として僧侶になっていくのではなかろうか。
僧侶だけじゃない、どんな道でもそうだけど。言葉のもつ自分の作り上げたイメージとか、枠に捕らわれてるうちは、なんかそれっぽいもの止まりで、実はそれは本質ではないような気がしている。
自分のなりたい僧侶像が昔よりもはっきりしてくるに比例して、他者に対する許容の幅が断然広がったような気がするのは、きっと他人はどうでもよくなったからなのかもしれない。
なんて。
*
竹原ピストルの感性はすごい。すごいというかすげぇ。すげぇというか、すんげぇ。
がつんと直球を投げ込まれたような気がした。
*
たぶん自分は、例えば死んだ時に、悲しいとか寂しいとか言ってくれる人が100人いるよりも、自分がいなくなることで、楽しくないとか、つまんないって思ってくれる人が1人でもいるほうが嬉しい人間なんだと思う。
POSTED @ 2012.06.08 |
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