志村けんのだいじょぶだぁをみながら、子どもが大爆笑している。抱腹絶倒とはまさにこの状態をいうのだろうなというくらいに転げ回っている。
思えば自分もそのくらいの頃、カトちゃんケンちゃんやバカ殿、ドリフをみては抱腹絶倒していたのだけど、今改めて、ドリフやバカ殿をみて、面白いことは面白いのだけど、こんなに床を転げ回るほどに笑えないし、むしろ悲しいかなこれの何がこんなにツボにはまるのだろうかとか思ってしまうこともある。
それは自分が大人になったということで片付けてしまうことができるのだけど、その変化は、一体いままで自分が心から笑えていた感性をどこにやってしまったのだろうか。そしてそこで失ってしまったものは一体何なんだろうか。
そんなことを考えていたら、子どもの感性に直接響く笑いを、意図として今も変わらず作り続ける志村けんは本当にすごい人なのだなと思った。目に見えないその感性をさびさせることなく、意識して維持するだけでもきっと常人には想像できないくらいの努力をしているに違いないと。
そしてその感覚は子どもと関わる時にはとても大切なことのように感じる。
昔、園で子どもが自分の目の前におもむろに花を差し出してきたことがあった。
その時、自分は、ありがとう、くれるの?と聞いたら、その子どもは首を横に振った。そしてまたおもむろに自分のほうに花を差し出してくる。
はて、くれるのではないとしたら何なんだろうか、一体どうしたいのだろうか。なにか袋にいれて持ち帰りたいのだろうかなんてことを考えていたら、その子どもは走り去ってしまった。
その後、その子どもは近くにいた友達に、同じように花を差し出した。するとその差し出された子どもは一言、きれいだね、といった。そうしたら花を差し出した子どもは嬉しそうに園庭にかけだしていった。
その出来事をふと思い出したのです。
志村けんを笑えなくなったことと、きれいだねの一言が即座に出てこなかったことはきっとどこかで繋がっているのだと思う。そしてそれがきっと大人になる過程でどこかに置き忘れてしまった感覚であり、感性なのだろうと思う。
その感性や感覚が何なのかは、朧気すぎるのだけど、でもきっとそれは人間を根底で支える類のものではないかと思ってる。