Title: 右とか左とか。

5年前に書いた文章を読み直してみて、時間が流れていろいろなことを経験して、自分は変わったようでも結局根底に流れてるものは変わらないのだということを自覚させられる。

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ある記事で、戦争経験者の老人がこう言っていた。
 
サイパンに新婚旅行にいったカップルが旧日本軍の戦車の残骸に腰掛けて、顔で写真をとったりしているのをみて、
 
左翼の人間は、この残骸は本当におろかな行為の証だなとかいうかもしれない、右翼の人間は、日本国軍人たちが命をかけて散っていた場所で、戦車にに腰掛けて、笑顔で写真をとるとはどういうことだ。と憤慨するかもしれない。
 
でも、私の仲間達、旧日本国軍人が守りたかったのは、日本国民の笑顔だったのです。だからきっと仲間達は新婚旅行でサイパンに来ることができて、笑顔で写真がとれるくらいに平和になった日本を嬉しく思っているんじゃないでしょうか。
 
そしてこの方は、ある時靖国神社で夜になると若者が境内で宴会をはじめるということが目に余るようになって、夜間閉鎖を検討されたときに一人で断固反対したそうだ。
 
そして、若者が笑顔で酒を飲めるなんてすばらしいことじゃないか。
きっとここにいる仲間達も笑顔でそれを眺めているよといったそうだ。
 
なんかこの記事を読んで、穿った見方をしようと思えばいくらでもできるのだろうし、この話もあくまで断片的、側面的なエピソードなのだろうし、すべての戦争経験者の方がこういう受け止め方をできるわけではないのはわかっている。

でも自分は単純だからこういう想いを持ってくれている人が一人でもいるということは嬉しいし、だからこそその想いにいい意味で甘えずに答えなきゃいけないのだろうと思ってしまう。
 
世の中ほんとにこれでいいのだろうか、この方向でいいのだろうかとかなにか息苦しさを感じたり、戸惑ってしまうことだらけだけど、でもそれでもたまにこういう話を聞いて自分の中で足下を確認する。
 
いいとか悪いとか正解とか不正解とかそういうのじゃなくて、自分がどこに進みたいかということを考えた時に、立ち返れる場所としてこの足元をしっかり確認する。
 
これは右とか左とかイデオロギーとかではなく、もっとシンプルな想いの話なのだ。

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そのシンプルな想いはすべての根底に流れている。深いところから湧いてくるシンプルな想いには優劣も善し悪しも正解も不正解もないという気持ちはいまも5年前も同じだ。

その上でいま思うのは、それぞれの想いの違いには好きも嫌いもあるし、共感できることもできないこともあるけど、それぞれがそれぞれの背景の中に生み出した答えを統一することなんてできないし、いつだって自分の正解だけが正しいと思いこまない姿勢でいたいということと、どんなに自分と違う考えだとしてもそれは自分と同じ人間が生み出したものであるという現実に目を背けないことだ。

さて夏も折り返し。か。



POSTED @ 2017.08.08 | Comment (0) | Trackback (0)

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