Title: 動機付け

ここ最近感じていること。

改めて再認識したのだけど、やはり人間がなにか行動するときの理由、動機付けというのは、自分の中の欠損した部分を埋める為なのだと思う。もしかしたらとかではなく、最近は確信に近くそう思うようになった。

自分のしてる活動、人に対する姿勢、使う言葉も、誰かを嫌いになるのも、好きになるのも、誰かを批判したくなるのも、わくわくするのも、目を背けたくなるのも、もっといえば、原発に反対するのも、歌を歌うのも、炊き出しをするのも、サッカーをみて興奮するのも、ツイッターでつぶやくことも、FBに写真を載せることも。必ず自分の中にある何かを満たすか、もしくは守る為なのだと思う。

その何かというのは、自分自身の存在であって、存在とは何かといえば自分を自分たらしめる概念だ。

自分の思う自分、友達の思う自分、他人の思う自分、家族の思う自分、自分というものは本来概念に過ぎないし、目に見えないし、本当はどこにあるかもわからないようなものなのだけど、そのどこにあるかもわからないようなものに、時に揺さぶられ、振り回されて、苦悩して、幸福を感じたりする。

そのなんだかわからないけど、間違いなくそこにある自分という概念を、ある程度の大きさの範囲にとどめておくために、つねに自己肯定をしてとどめておかないと不安になるのが既存設定なので、つまりは人間はつねに自己肯定されたい生き物だと断言してもいい。

覚りでも開いていない限り、娑婆に生きてる人は僧侶だろうと在家だろうとみんな自分のことを認められたくてしかたがない。表面的にそれを否定したとしても、その否定すらも自分の中にあるなにかを満たすか守るための行動なのだと思う。

これは思い込みでもなんでもない事実だと思う。

そしてその自己肯定をするという作業はとても厄介で、それは他者との比較によってしかできないので、つねに人と自分を見比べているし、人からの評価を自分の存在価値として結びつけたりする。

自分はその大前提を信じているので、自分の中では「誰かの為に」とか「何かの為に」という動機付けがあまり好きではない。きっと表面的な部分では、誰かの為や何かの為に見えるようなことでも、本質はそうではないと思ってる。本質はそうでないのに、そう思い込むことで、そこに生まれるギャップは時に誰かを傷つけるし、自分自身の足をひっぱるのだとも思ってる。

それを自分で認識している人としていない人がいたら、認識している人の言葉のほうを信用しているし、自分の為になにかをしている人と、誰かの為になにかをしている人がいたら、自分の為に何かをしている人を信用する。

それはきっと自分はきっとここ一番で人間自体を信用してないからだと思う。なんで信用できないかといえば、それはきっと自分自身がろくでもない人間だからだきっと。

なもなも。

POSTED @ 2013.06.05 | Comment (2) | Trackback (0)

娑婆世界に生きていれば、必ずや何らかの自己表現を伴わざるを得ない。

Posted by:   @ 2013年6月 5日 10:51

そうですね。間違いないですね。

Posted by: ryo @ 2013年6月 5日 12:26

コメントを書く。