Title: にわとりのたまご。
腰を据える。一つづつに腰を据えてむかう。
人間の脳は、少しでもいいから動きはじめないと、やる気が起きないようにできてるそうだ。
最初の一皮、表面のぱりっとしたところを突き破れば、自然と前に進んでいく。
腰をすえて開き直る感覚。
それと、緊張を腹で楽しむこと。
打席に立ったのだ、せっかく立ったのならその一打席の舞台を楽しみたい。
楽しむってなにかといえば、きっと自分らしくバットをふれて、自分の好きなように振ったバットが人から少なからず認められることなのだろう。
そういうときに、脳には快楽物質がどばっとでて、それを覚えることで、少しづつ自分らしさという形のないものが明確になってくるのかもしれない。
うまくいくとき、うまくいかないとき、そのときの感覚、その違いを感じられるくらいには年をとれたということだろうか。
ほんの一瞬、ふとしたときに、自分の中のなにかが劇的にかわるということがある。はたからみたらまったくわからないようなことでも、自分にとっては劇的な変化がここ数年で2度あって、一つは話す速度がかわったこと、そしてもう一つは間の取り方にのりしろがでたということ、この2つだけは間違いなく自分の力で体得した武器であり、個性として確立できたと思っている。
そしていまここにきてもう一つその壁がぷちっといきそうなことがあって、それはまだ言葉にはうまくできないのだけど、腰を据える感覚と、そこから出てくる言葉の質、そして言葉というのは、内容や言葉尻よりも、その質をあげていくことが次のステップに昇るときに不可欠なものなんだろうと感じている。
そこに付随して、インプットもアウトプットも意識的してるうちは、それが結びつくときにまだ摩擦があって日常生活のすべてのなかに無意識にインプットアウトプットできてると、それが自然とどういう道理かわからないけど、摩擦なくむすびつくことがある。
そこに身を置いて、それを信じて勝負をするのは、いつ降るかわからない雨を待っているようなもので、きれいになにかが結びつくかわからなくて、不安になって、無理くりに何かと何かを固結びしてしまうこともまだ多々あるのだけど。
でも少しづつ、結ばずともそれが気づいたらきれいな蝶結びになるということと、そういうときに自分がどういう心持ちでいるのかとうことがおぼろげながらわかってきたきがする。
前に前に。
POSTED @ 2016.04.17 |
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