Title: さっち。

社会の役に立つことをするということと、自分の行動が結果社会の役に立つということは少し違う。

あくまで自分の中の仏教の感覚からいえば、社会は憂うものだと思うし、社会のものさし、世俗の物差しにあわせることで多くの苦しみは生まれてくる、その苦しみは社会からはずれる、もしくは物差しを持ち替えることでこそ薄れていくのではないかと思っている。そもそもが社会という通年自体がどれだけ曖昧で、不確かで、誰かにとって都合のいいものか。

ほしがりません勝つまではがいつのまにかこの大量消費社会になるくらい流動的だ。

それに気づくいうことが仏教の1つのあり方ではないかと思う。その思惑、枠組み、通念から少し距離をとる。別に反社会活動をするというわけではなく、精神的な部分で自由になる。とらわれない心をもつという意味で。社会の"こうあるべき"は必ずしも自分に幸せをもたらすわけではないと。

なので、はなから社会の為にというのは本来ある仏教の道理からはずれているように見えるし、社会の為になることは仏教において副産物としてあるのかもしれないけど、それは目的ではないはずだ。むしろ社会の為の自分というベクトルは苦しみを増やすのではないかと危惧してしまう。こうあれば幸せは、いつだってこうなければ幸せではないを生み出す。

貧しいものが救われる対象で、富めるものは後回しだという社会の通念、弱きものを強きものが守るのが社会の通念。それははたして本当にそうか?富めるもの強きものは本当に貧しきものや弱きものよりも幸せか?そう投げかけること、そこに疑問を持つこと、そういう視点で物事を考えることはとても大事な事だと思う。

インドにいくと、街の中の牛たちはガリガリでどろどろ。骨と皮で糞まみれ。それをみて多くの日本人にはかわいそうだな、憐れだなという感情がわき起こるかも知れない。でもそれは自分の知っている牛との違いからそう思うのだと思う。

自分の知っている牛はまるっとふとって、のんびりと牧草を食んでいる姿だから、インドの牛がかわいそうに見えるのかも知れない。でもその日本の牛は、牛乳のために、食肉の為に品種改良され、よいサシをいれるためにストレスフルにされているだけなのかもしれない。本来牛は痩せているのだ。

どちらが幸せかなんていうのは自分の世界との相対でしかない。

みんながみんなではないけれど、自分の目には、社会貢献、社会活動をしている人の中には少なからず、そのインドの牛は救うべきものだと決めつけている人がいるように見える。ましてや助けるのか助けないのか?と他者に二択を迫るようなやり方は間違っていると思う。僧侶ならなおさら。

何度も言うがみんながみんなではないけれど。

それに付随して考えてみるに、仏教にとっては社会からイイネ!されないほうがきっと健全なのだ。そして仏教はつねにマイノリティであるべきなのかもしれない。蟻の巣の法則のように。

別に反社会派なわけではないが、かといって社会派なわけでもない。この立ち位置を中道ということでとらえるのは自己肯定しすぎだろうか。

なむさん。



POSTED @ 2013.04.24 | Comment (0) | Trackback (0)

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