Title: 曲胃。

昨日の振り返り。

たぶん。というか絶対。

自分は人一倍、熱いこととか、青臭いこととか、思春期とか青春とか、どきどきすることも、わくわくすることも、淡いものも、たまんないくらいに好きで、それを貪欲に求めているのだ。つねに潜在的に。

そういう一つ一つを指くわえて見ていられるようになることが大人になるということなら、大人にはなりたくないとかいい年こいて、本気でおもってて、マイペースで自分勝手で、自分が満たされるためなら、結構いろんなものも踏み台にできるし、嘘もつくし、平気で人を傷つけたりもできるのだ。

それでも、普通にりっぱな大人みたいなことも言えるし、きっと昔の自分がみたら、くそったれだと思えるようなセリフもさらりとはけるようになったし、そういう自分を肯定することもうまくなったし、それなりに社会の中でも半人前くらいにはやっているのだ。

そんで潜在的にあるものと、後から身についたスキルとのせめぎあいはいつだって拮抗していると思っているのだけど、でもふと気づいたら纏足はいたみたいになってるような気になって、いつだってそれをぶっ壊してやろうと思ったりもするのだけど。

でもそのぶっ壊すものの中には、あったかくてぬるいものもたくさん含まれていて、振り上げたこぶしをあげたりおろしたりするのだ。

なんて。

そんなことを何度も繰り返しているうちに、そういう時間経過のすべてが結果論として、自分のすべての人生を形作るのだろうと思えるようになった。

今は、中身も外見も、潜在的なものも表面的なものも、才能も技術も、全部が全部結果論にすぎなくて、そもそもぶっ壊すも何も、すべてはつながって出来上がったものだから、だるま落としみたいにどこかだけ、ぽこっとぶっ飛ばすことなんてできないのだ。

言葉に捕まらないようにしようと思う。

そんで帰り道に思ったのだけど。

昔と今の自分が1つ違うのは、刹那的という言葉のとらえ方かもしれない。昔思ってた刹那的は脆くも儚いイメージだったのだけど。でも今は刹那的に生きるということは、日々を丁寧に生きることだと思ってる。

そのベースが変わったことは大きい。

それと、守るとか攻めるとか、勢いとか流れとか、そういう言葉で心を奮い立たせるメリットは、ここ一番で言葉によるブレーキがかかってしまうというデメリットを兼ね備えているということも学んだ。

んで。

すべてのものは両面を兼ね備えてるからこそ、依存したくないと思うようになったのだ。






POSTED @ 2011.07.16 | Comment (0) | Trackback (0)

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