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Title: 遺書。
こないだ遺書を書いたのだけど。 とはいっても死ぬきもなけりゃ、何か重い病なわけでもない。ただ肋骨が折れてるだけで。 この間若手僧侶が集まる会で、僧侶が集まって改めて真剣に遺書を書いてみようという試みがあったのだ。普段から死に触れて、人前で法話なんかしてる人たちがいざ自分の死に向き合いましょうってな意味で。 んで感じたこと。 多くの人が、遺された人たちに、ありがとうとか、ごめんなさいとか、そういう言葉を綴ったというのを聞いて。 自分の遺書にはありがとうも、ごめんさないも1つもでてこなかった。 それに正直言うと明確に誰かの顔を思い浮かべることもできなかった。 結局自分が書いたことをかいつまんでしまうと。 世の中は思い通りに行かないことが既存設定です、そう思ってるとちょっと楽になれるかもしれないです。 まあお先にいってますので、またいつかお茶でものみましょう。んじゃ。 ってな感じのことなのだ。 キレイにまとめすぎとか言われれば、そうなのかもしれないのだけど。 実はなんか感情移入しすぎて、言いたいことや想いがあふれすぎて、むしろ考えすぎちゃって、自分の一生や想いを、文章にまとめることなんて不可能だと思って、なにがいいたいかと思ったら、なんかお別れみたいなのは嫌だし寂しいから、この世もあの世もたいして遠くないよってなことがいいたかったのだ。残された人がそう感じてくれたらいいなと思ったのだ。 あの世とこの世の垣根を少しでも下げたかったのだ。 それと、自分が明確に誰かの顔を想定して言葉を残して、死んでなお自分の言葉や、想いで誰かや何かにバイアスをかけて、可能性を狭めるようなことが嫌だったのだ。 こうして生きてくれとか、自分が死んだらこうしてくれとか、寺はこうして、幼稚園はこうしてとか、あいつにこれを渡してくれとか。HDDのこのフォルダは開けないで黙って削除してくれとか。そういう残したい言葉や想いはたくさんあるのだけど、残したところで、残された人が思い通りにできることもできないこともあるから、まあそこはなるように、残された人がなんやかんやと理由を付けて、きっとあの人はこう思ってるよとか、こういう人だったからきっと喜んでるよとか、勝手なことをいいながら満足いくようにしてくれればいいやと思ったのだ。 秘蔵のコレクションが削除されずに形見分けだとかいいながらみんなが持ち帰ってもそれでいい。 むしろそれが嬉しいし、あの世から見えるかどうかはわかんないけど、もし見えるなら、自分の残した言葉や思い通りにみんなが動いているのを見るよりも、みんな思い思いに勝手なことを言ってるのを見る方がおもしろいなと思ったのだ。 それぞれ残された人達が勝手な想いで、満足して自分を思い出してくれるならそれでいい。そんであのやろう勝手なこといって都合いいこといいやがって、うらめしやなんて、いいながら、あの世でお茶でもすするのだ。 そもそも自分がいなくなったところで、世界はなにもかわならないし、いないならいないなりに日常は回っていくのだ。 なにか残したところで、いないやつの想いや願いなんてものはいづれ風化していくのだ。 なんかお寺にいて一番思うのは、これなのだ。 自分はいてもいなくても間違いなく明日から日常は、その人がいないなりに回っていくのだ。 ばたばたするのなんていいとこ数ヶ月だ。それになにかを残そうったってそんなもんは無理だ。 なぜなら3代前の先祖の残した言葉なんて自分は1つも知らないのだから、それがなによりの証拠だろう。 それが現実なのだ。 でもそれは寂しいことではなくて最高に幸せなことなのだと思う。 だからこそ、その現実こそが今を大事にするべきなによりの理由になるし、その現実があるからこそ、この瞬間が二度とないものであると思えるし、それが人生に彩りをくれるのではないかと思う。 今回こういう形で遺書を書いてみて。 なんかいろんなことを再確認できた気がした。 なむ。 「人には、(悩みect)大なり小なり誰でもあるんや。そんなもん。いうか、いわんかの差だけじゃ。」 コメントありがとうございます。 人は大なり小なり悩みをもっているということはよくわかっています。言うか言わないかの差と言うこともわかります。 それと何もいわずにこの世を去られた先人たちの思いも、絶対に今生きてる私たちに伝わってる。という気持ちもよくよくわかります。 自分がそれを感じていないように思われたのならそれはうまく伝えられなくてすみません。 今回の遺書を書くにあたり自分が一番意識したことは、やはり残された人のことでした。 おそらく実際に遺書を受け取ったことがあるかないか、または遺書により苦しんでいる人が身近にいたかいないかでも遺書というものに対する気持ちは変わってくると思います。たまたま自分の周りではそういうことがあったので、その言葉の重みや、残された人達に与える影響がいいものであることも悪いものである場合も身をもって体験したうえでの結論でした。 今回書いてみて感じたのは、その場になってみて、いざ言葉で伝えるのは限界があるのだということで、自分は最後は遺書で伝えるのではなく、生き様でそれを伝えられればいいと思いました。 それで伝わるものは伝わるし伝わらないものは伝わらないと思います。 そして仏教に携わる人間として誤解を恐れずに言うのなら、遺書というのは最後の最後になっても、まだこの世に未練を残して、自分の業をこの世に残したいという我欲のような気もしました。 答えになっているかわかりませんが、いま自分が率直に思うことです。
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