Title: 0170206
なんか、夏、もう終わってもいいかもと思った。
室外機の音が低く響いてる深夜の街で、煌煌と月に照らされて、夜風が吹いて、あちこちで風鈴がなっていて、その横を新聞配達のバイクが追い抜いていく。
すべてが絶妙にかみ合ってて、もちろんそれは、物理的なものだけでなく、夜道を歩くまでの経緯も含めて。
自分がここでこんなに幸せな気持ちでいることを世界中の誰も知らないということが、ある種優越感みたいにこみ上げてきて、その気持ちをかみしめながら、ながむる人の心にぞすむ。なんてことをぼんやりと考えながら、自受法楽みたいだと思った。
あんまり気分がいいから、自動販売機で120円の水を買うのに、150円入れて、おつりをとらずに立ち去ってみたりする。
幸せとかいうものはどこまでも合わせ技なんだと思う。
月だけを、夜風だけを、匂いだけを、気候だけを、そこにいたるまでの経緯だけを、そして2時6分をさした時計だけを、そのどこかだけをすっぱ抜いて、幸せの定義にしようったってそうはいかない。
本当に小さな要素が、たくさん混ざり合って、折り重なって構成される目の前の事実と現実の比重が、すこし自分にとって心地よい要素に傾いた状態を幸せと呼ぶんだ。
不幸せだと思う心も同じで、そこを抜け出したいなら、小さな要素を積みかさねて、比重を反対側に傾ければいいのかもしれない。
そのどちらも、なにか1つの劇的な行動や事実によってもたらされているわけじゃないのに、そのどこかだけをさして、幸せや不幸せの構図に捕まるなんて馬鹿みたいだ。
自分が何で、どこに向かうのかなんてわからないし、人生にはいつもレギュラーが起きるのだし、そのイレギュラーをどう受け取るか、どう処理するかということが醍醐味なんだきっと。
言葉に捕まらないように、一つ一つを味わっていけたらいい。
そして、あきらめがつくっていう気持ちは、悲しくも寂しくも響くけど、その白旗は覚悟であり、向き合うことであり、いままでなかったものを得ることだといってもいいのかもしれないと思った。
POSTED @ 2011.07.18 |
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