Title: 空喰う。
備忘の為に。
仏教というのは、空を知ること、だから深めていけば深めていくほどに仏教すらも空なのだ。
僧侶という呼び方も、教典も。そこにあるのは、ただの空を知る道だということにつきるのかもしれない。
空とは、すべてがすべて絡み合って、支え合って、こんがらがって、一見ぐちゃぐちゃにみえるけど、よくみりゃみんなバラバラで、何一つ実体なんかないということだ。
言葉も匂いも、想いも願いも、すべてがすべて、この自分の脳ミソが自分に絡みついている様々な要因から生み出した、自分の色の自分にしか見えない、自分だけの世界なのだ。
そんなものははなからうそっぱちだ。でもみんな自分の見えてる世界だけはうそぱちじゃないとおもってるだけのことなのだ。
自分はいままで、仏教があれば幸せになれると思っていたし、少なくとも苦しみが軽くなると思ってたし、実際に何度も救われてきたのだけど。でもよくよく考えれば、救われたのは、その方法が自分の中で意識的に、もしくは無意識的に、実践されたからであって決して仏教という概念に救われたのではないし、阿弥陀によってでもない。でも仏教という概念と阿弥陀がいなければそこには自力では絶対に辿り着けないというパラドックスこそが仏教のミソなのだ。
あえて言うのであれば、仏教では人は救えないし、ましてや僧侶なんて呼び名は大切な事を曇らせ真実から遠ざかる要因だ。
僧侶であればこそ僧侶を離れ、仏教を実践するからこそ仏教を離れることが出来なければいけないし、この「離れる」という感覚を実感として体験していくことが、仏教を深めていく過程における1つの目安なのかも知れない。
僧侶が仏教を広めて人を救うなんて言うのは、私は仏教のことがなんにもわかってませんと言っているのと同じなんだきっと。
それともう1つ。目の前にいるのが誰であれ本当はフラットなのだ。その人がいくつであれなにものであれ。人間が人間である以上はフラットなのだ。みんな飯食ってうんこして、セックスして、死んでいくだけ。その中でおいしいものを食べる自分、隠れてうんこする自分、セックスする自分にきれいに理由付けをして、自分自身、人間自身を少し高い所へ押し上げることで、限られた時間に生きていることをごまかすのだ。
そしてごまかしが生み出す歪みこそを苦悩と呼ぶのだ。
まえにまえに。
POSTED @ 2013.04.06 |
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