Title: 旅

弾丸ツアーでアジアのどこかに旅にでる夢をみた。

思い立って飛行機に飛び乗って、深夜の空港につくとそこからすぐに車を乗り継いでどこかの遺跡に向かった。とてもリアルな夢で、目がさめたときにバスで揺られて痛かった腰がまだ痛かったし、ふわっとした高揚感がお腹の底でくすぶっていた。

みたことのない景色がみたいとか、したことないことをしたいとか、まだまだ世界には知らないことがたくさんあるとか。そういう気持ちはいつだって心のどこかにあって、ほおっておけばマンネリ化する日常の中にいつだってそれを求めているのかもしれない。

昔はそれを外に外に求めていたのだけど、最近では自分が旅をしているときとしていないときの心の置き方の違いがよくわかったし、旅はどこにいてもできることもよくわかった。

「人生は旅である」という格言を耳にしたことがあるが、人生は旅だというのは字面だけにその深さがあるのではないのだと思う、人生を旅だというには、まず旅がなんたるかを知らなければならないのだと思うし、そもそも旅がなにをもたらすものなのかをしらなければならないのだと思う。

旅において目的地は1つの手段で、手段に至る過程に自分が何を得て、どう動機付けをして足をだすかということは、本当に人生と似ていると思う。

雨を、忌むも、詫びるも、尊ぶも、同じ心から繰り出される。

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人と関わる時に大事なのは「素をむき出す作業」だなと思った。

一枚一枚皮をむいていくように、言葉と姿勢と行動をつかって、相手の表皮をむいていく、簡単にむけるときもあればむけないときもある。それをむくのがうまい人が、つまりは人との距離の詰め方の得意な人なのだろうと思う。

最近は会話にはいくつか段階と種類かあるように感じていて、その段階のギャップをどのタイミングで、どの言葉を使って超えるかということを考えたり、相手の使う言葉や姿勢の変化を感じ取ることでコミュニケーションは格段に面白くなるし、自分自身の中でもコミュニケーションが楽しみとして確立されてきたように思う。

意識しないで言葉を使うのであれば、意識して使う方が何倍も楽しめる。楽しまなければなにもうまくはならないと思ってる。

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この間とある場所のエレベーターで乗り合わせた貴婦人達の会話。

「先日○○さん、車をぽんとプレゼントしてくれたのよ~」

「すごいわね、私はこの間旦那に銀座に連れて行かれてバーキンを現金で買ってもらったわ」

「すごいわね~うちなんか息子が海外に留学してるからお金がかかってしかたがないわ~」

それを聞いていてなにか気持ちが悪いというか違和感が残った。エレベーターを降りてから、どうして自分の中でその会話に違和感を感じるのか、どうしてなにか嫌な気分がするのかを考えた。

朧気ながら、その理由はきっと、会話に顔が見えないからだろうと思った。例えるなら、顔を両手で覆い隠しているのに、それでも自分はこんな顔をしているのよと、CGで作られた自分の顔のパネルを見せ合っているような類の違和感なのだと思う。

情報の伝達というのであれば、それが会話であれ文章であれ顔は見えなくてもいいし、むしろ顔を見せない方が効率はいい、しかし会話の種類がお互いを知ることであったり、例えそれが雑談なのだとしても、たわいもなければたわいもないほどに、そこに顔を見せなければ会話は本来の力を発揮できていないし、そこに違和感しか残さないし、その違和感は疲れを生むし、その疲れは次へのコミュニケーションにつながらない。

世間には顔の見えない言葉や行動や姿勢があふれていて、むしろ今やそれがあたりまえなんだという慢性的な思い込みも蔓延している。それは世の中にある問題の切っ先なのかも知れない。

閉塞感や孤独感というのは、人とうまく繋がれないことから生まれるのだと思っている。人が人とうまく繋がれない要因の1つは、世の中が顔が見えないことを問題視するどころか、それを助長していくような科学や、生活の進歩を加速化させているからだと思う。

その加速にブレーキをかけたり、そこに反比例させる力で行動をしていくのは、これから自分が大切にしていかなければいけないことの1つだと思う。

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1人の人が体験できる人生は一種類だけ。

当たり前なのだけど、先日ふと自分が成し遂げられる人生は1つだけなのだというごく当たり前のことが腑に落ちた。

自分は変身もできないし、悪の組織と闘うこともない。世界の為に、社会の為に身を粉にする気もない。では残りわずかな時間で、自分の1つの人生を芯のある形で、楽しんで終えるためにしなければならないことはなにか、何を得て、何を捨て、何を残していくのか。

きっと昔の自分であれば、得るために何をして、いらないものを選別して切り捨てて、そして残したいものから逆算で今の行動を決めていたかも知れないが、今思うのは、どこにいても得れるし、なにも捨てるものはないし、その結果に残るものが残すべきものなのだと思えるようになったことだ。

それがいいのか悪いのかはまだわからない。でも昔よりもずっと生きやすい。

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湯圧のすさまじいシャワーで頭の先から湯を浴びる。

なにか自分の中の悪いものまで一緒にこそがれて、流されていくような錯覚を覚える瞬間の、逃避と自己肯定の入り交じったような生々しい感じが生きているということなんだろうと思う。



POSTED @ 2013.06.16 | Comment (0) | Trackback (0)

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