Title: めじな。
死というものを考え、想うときに、それはいつもこちら側、つまりは生の側から発せらるるものだとばかり思っていたのだけど、そうでもないようだ。死とはこちら側からコンタクトするものではなく、唐突に、前触れもなく瞬間的に向こう側からコンタクトしてくるものなのかもしれない。生の側から想う死とは、生の対極にある死に対する像であって、それは死そのものではないし、本来あるべき死とは別物であると考えてもいいのかもしれない。
本来あるべきはずの死にはきっと脳内再生するときに付随するような温度も表情も、ドラマチックな効果音もなくふとそこにいるんだ。よおってなもんで。
と。こないだ最終電車を乗り過ごしてあるく帰り道で、うっすらと春の匂いのする夜風にふかれながら考えてたわけで。
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急激な温度差なんてものは表面的なもので、それは表層を焦がしたり、低温やけどにするかも知れないけど、芯の部分にはなんの影響もないのだ。喜びも悲しみも、苦しみも、ありとあらゆる心を動かす要素も感動も。ちぇっ。
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人がなぜ思い出に執着するのかといえば、その思い出の中にいる自分を許し、慈しみ、拾い上げたいからで、なぜそんなことを思うのかって、人間は自分の中に流れる時間軸を点で考えるとバラバラになってしまうような錯覚におちいりやすくて、どこに手をついていいかわからなくなるような感覚に捕まることがあって、脳が意識的に、無意識的にそれをさけるからではないかと思う。
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例えば、一流のスポーツ選手が誰もいないところだしたパスがつながるような。F1ドライバーがオーバーテイクをするときに、意識が先にコースをとるような。それはきっと予測とも違うようなもので、なんていうか実際に視覚的に見えているのではないだろうか。
現実に可能性は無限にあるかというとそうでもなくて、イレギュラーな不測の事態を除けば、経験を積むことで、その先にあるであろう光景を視覚的に脳内再生する時の選択肢は絞られてくるのではないかと思う。
視えるとか、読めるとか、極めたとか。
それをどう表現するかは別として、なにをしていても、突き詰めていくと近いことが起きているのではないだろうかと思う。つまりは、どこまでも細かい単位の今に目を凝らしたさきには未来すらも見えるのかも知れないなんて。
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種としての安全が確保された中で、優位性を誇示しようとする働きは、動物として至極自然だ。いじめでもなんでも。
根底にあるのは、生き物としての本能。
メジナでさえ優位性を誇示しようとするのだ。
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からっぽでまっすぐ。
POSTED @ 2015.03.16 |
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